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掌編小説「あの日、森に捨てられた」
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2012.01.19 Thursday 07:20母に棄てられた姉弟についての、とても短い物語。または愛する者を守ることについて。そして、幼い子どもにとって世の中とは、深くて暗い大きな森であるということ。
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短編小説「クリスマス・ツリーのてっぺんで」
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2011.12.13 Tuesday 07:11死にたいと泣いていた少女がサンタに語った願い。
または平等・公平という恐ろしき支配構造について、
もしくは【夢】について。
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短編小説「神が君臨するこの世界」
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2011.11.21 Monday 09:10短編小説
「兄と妹」にまつわる残酷な短い物語。
あるいは神の不在について。
ブラウザからの閲覧、PDFのダウンロードも可。
無料です。
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短編小説「あたたかな傷」
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2011.11.21 Monday 09:04
短編小説
どこにも居場所のない少女と少年。
都会の廃墟ビルでお互いの存在を手探りで確かめ合う二人を描いた短い物語。ブラウザからの閲覧、PDFのダウンロードも可。
無料です。 -
旧木村浅七邸
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2011.10.09 Sunday 20:48
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短編小説「水晶玉の名前」
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2011.10.07 Friday 21:46短編小説書きました。
ブラウザからの閲覧、PDFのダウンロードも可。
無料です。
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いずれ無くなる…
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2011.10.06 Thursday 20:58唐突に「もしかして明日、壊されるかもしれない!」という恐怖感に囚われ慌てて撮影。
いくらでも再利用できるし、それなりに希少性も備わっていると思うのだけど、相変わらず行政は動かない。
宝くじでも当たれば買い取って公開するんだけど、宝くじ買っていないし、そもそも自分の甲斐性のなさに問題があるわけで、あまり行政の悪口ばかりも言ってられない。
ということで、ひどい扱いを受けている建造物を見る度に、悶々とするのであった。
「旧足利東映プラザ」



「井草町、旧岩下商店周辺」







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最後の遺産
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2011.06.14 Tuesday 17:39足利市相生町にある「相生幼稚園」
経緯は分からないが同じ名称の幼稚園は現存せず、廃園になったものと思われる。
建物は典型的な木造二階建て校舎様式(正式名称は知りません)。
全く管理されていないので、いずれ朽ちるか解体される運命か。
足利に残された(たぶん)最後の木造二階建ての校舎。
「観光都市」を標榜しながらも、足利市はこのまま放置を続けるのだろう。
というか、これを「素晴らしい」と感じるかどうかは人の感性なのだから、
「価値無し」と感じる人が多いのなら仕方のないこと。








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サポーターがプレーヤーを越えたとき
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2011.05.11 Wednesday 00:40
栃木県立美術館で開催中の絵画展「関谷富貴の世界」
栃木県立美術館HPより紹介文抜粋(一部省略)
http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/jp/exhibition/t110423/index.html
関谷富貴はこれまでその存在を全く知られてこなかった画家です。しかし、1950年代に制作されたと考えられるその作品は、鮮烈な色彩とイメージが画家の内面からあふれ出してくるような力に満ちたものです。
関谷富貴(せきや ふき, 1903-1969)は栃木県北部生まれ若くして両親と死別、20歳の時には兄も亡くなっています。その後、画家の関谷陽(せきや よう, 1902-1988)と結婚、晩年まで世田谷区松原に暮らしています。松原のアトリエでは、夫の陽が二科展に出品しながら絵画教室を開き、富貴は画家の夫を支えました。
生前、富貴は作品を発表することは一切なく、また周囲の人にさえも制作する姿を見せることはありませんでした。ごくわずかの人々を除いて、200点近くの作品の存在そのものが知られていなかったのです。しかしその独創的な作品群には、20世紀という時代を生きた女性の内面が見事な造形表現として結実しています。
この展覧会は、ほぼ完全に忘れ去られていた、いや、そもそも美術界に登場することもなかったひとりの画家の驚くべき画業を初めてご紹介するものです。
実際に観た印象は、上掲の紹介文と全く同じであり、これほどの完成度を持つ作品群が完璧に埋もれていた事実にただ驚くばかり。
また「ほぼ無名の画家の妻」という境遇のため、生前の記録はほとんど残っていない。
50年ほど前まで間違いなく存命していた彼女についてはだから「教養の素地を如何にして習得したか?どこで絵を学んだのかすら判明しない」という有様。
しかしたぶんこれが市井に暮らす一般人の現実なのだろう。
さて、関谷富貴の絵画が素晴らしかったことはもちろんなのだが、僕が興味を惹かれたのは「彼女は夫のサポーターに過ぎなかった」という事実。
このあたりの推測は図録に詳しいが、絵画教室を営む夫を手伝う過程で絵画に興味を持ち、子どもがいなかったこと、そして夫が家を空けることが多く、一人で過ごす時間を得たことで、じっくりと絵の勉強が出来る時間があったこと、そして何よりも富貴が資質に恵まれていたことが偶然重なり、サポーターがプレーヤーを越えてしまう事態が現実に起こったと考えられる。
これを夫はどう感じたのか?
最初は、愛する妻が自分の仕事(生き甲斐?)に興味を持ったことを微笑ましく感じていたはずだ。
もしかしたら最初に絵の手ほどきをしたのは夫だったのかもしれない。
(そういう記録や証言すら残されていない)
二人の同居開始の時期すら判明していないわけだが、仮に戦前から同居を開始していたとして、従軍画家として長期間家を空けていた夫が南方から帰宅したとき、妻の笑顔と、アトリエに埋め尽くされた前衛的で見事な作品群を目の当たりにしたとき、夫はいったい何を思っただろう。
富貴は無邪気に「面白くていっぱい描いちゃった」と恥ずかしそうに言ったかもしれない。
その時夫は「これはすごい!」と応えたのか
「いいんじゃない」と無関心を装ったのか
「これみんな単なる模倣で全然ダメだね」と突き放したのか?
いずれにしろ、夫婦は「妻の作品を公表しなかった」
美術界に多少なりともコネクションを持つ夫であったのに。
また、富貴が(たぶん画集で)クレーやカンディンスキーの抽象絵画に触れたとき、現実社会をリアルに再現しないでいいこれらの手法に「女であり妻でありサポーターに過ぎない自分」でも表現者になれる可能性を見出したのではないか?
富貴の日記の類も一切残されていないが、僕は富貴はたぶん日記を付けていなかったと感じる。
自分の思いを文章にすると、それは客観的な事実となる。
女であり妻でありサポーターに過ぎなかった富貴は、頭の中で思っていることや全身で感じ取っていたものを、ストレートに誰かに知られることを恐れたと思う。
「誰か」の代表者はもちろん夫だろう。
いずれにしろ、これらのことは昔話ではなく、現代でも充分に起こりえること。
フェミニズムや男女同権や草食系男子が増えたからと言っても、プレーヤーとサポーターがパートナーになる限り、サポーターがプレーヤーを越える事態は避けられない。
プレーヤーとサポーターの関係とは、もちろん画家や芸術家だけを差すわけではない。
主に生計を立てる者とその受益者。
指導する者と指導される者。
保護する側と保護される側。
親と子。
つまり主従関係の全てのシーンに逆転は起こりえると言うこと。
だから富貴の件は時代のせいに出来たとしても、現代においては全ての責任はプレーヤーに帰する。
そう言う意味では、現代の方がより過酷かもしれない。
サポーターに越えられたとき僕たちは何が言えるのだろう。
「これはすごい!」と素直に賞賛できるのか。
「いいんじゃない」と無関心を装いなかったことにしょうとするのか。
「大したことないね」と叩き潰して抹殺しようと計るのか。
とにかく富貴の絵は世に出ることはなかった。
彼女が天涯孤独な身の上であれば、どこにでも転がっている「よくある話」
しかし富貴の夫は、美術界に多少のコネクションを持つ画家であった。
更に夫は妻よりはるかに長生きした。
妻の絵を世に問う機会はいくらでもあった。
そして忘れてならないのは、同時に富貴の作品群を破棄する時間もいくらでもあったということ。
しかし夫は破棄しなかった。
この事実が、たまらなくやりきれない。
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GW、松島へ観光に行くということ
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2011.05.02 Monday 06:59
4/29・30で「奇跡的に被害を免れた」と言われる宮城県は松島へ「観光旅行」に行ってきた。
前日の渋滞予測では東北道下りは5km以上の渋滞無し。
この情報を信じてゆっくり出発したら、予測は大外れで計2時間以上渋滞に巻き込まれた。
噂されていたボランティア渋滞だったのだろうか。
午後3時頃、仙台で高速を降りるが、雲行きがどんどんあやしくなってとうとう雨に。
しかし僕はくじけない。
宿泊地の途中にあるニッカウヰスキー宮城蒸留所には何が何でも寄らなければならない。
車の一人旅だから試飲は出来ないんだけどね。



昔のお酒やジュースの瓶が展示してあって楽しい。
客層は…昨今のハイボールブームの影響なのか若い人が多い。
ショップには1万2万のウイスキーが当たり前に並ぶけど、
いったい誰が買うんだこんな高いの。
そしてこの付近は桜がまだ見頃であった。
桜前線に追いつく旅というのは何か得した気分になる。
この日の宿泊場所は仙台から30分くらい西に行った作並温泉というところ。
宿には広瀬川沿いの露天岩風呂があって、ここに至る階段がとても風情があってよい。

ただこの階段しかないので、お年寄りにはきついだろうな。
というか無理かも。
ちなみに宿は、夕食時の様子を見る限り、半分強の宿泊数とみた。
家族連れや若いカップルも少なくない。
ただし心なしかみんな静かに食べている。
相席の(同じく一人の)男性達に積極的な話しかけるも、いまいち反応が悪い。
まあ…中年男性同士でお喋りしても面白くないんだろうけどさ(苦笑)
さて翌日はいよいよ松島へ。
ところでここまで、まったくと言っていいほど被災の爪痕に遭遇していない。
そりゃ旅館にも大きなひび割れとかありました。
でも栃木の被害と大差ない程度(見た目の話)。
仙台から松島へは最近自動車専用道が整備されて、1時間もかからずに到着できる。
(カーナビの案内を無視して進むのはけっこう勇気がいった)
しかもインター降りて直ぐだから、これまた被災現場をまったく見ないで行けてしまう。
これは、ぜひ松島には行きたいけど被災地を通るのはちょっと…ということで迷っている方にはとても都合いいのではないだろうか?
人によっては「被災地の現状を直視しないとは何事だ!」とお怒りになる方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、そういう考え方がブレーキになって人の動きを抑制してしまうのも事実。
「一つになる」のも大事かもしれないけど、支援にも多様性があっていいと思うし、多様性を認めることで、多くの機会、切っ掛けが生まれるのだと僕は考える。


遠目に見れば、これも被災地だなんて分からない。
ただし注意深く見ていくと、やっぱり栃木とは違う被害状況が垣間見られる。
更に街を歩けば、驚きの光景が…
写真は撮らなかったが、お土産物屋や食堂など、ざっと半分くらいは開店していない。
開店していないというか、シャッターは車が突っ込んだようにメチャクチャに凹み、
ショーウインドウは補強テープで辛うじて形を保ち、
歩道は掃除をしたのだろうけど未だ泥にまみれている。
また、道路の至る所に白い粉が撒かれていて、
後で知ったのだけどこれは消毒剤だったらしい。
「奇跡的に被害を免れ…」は、近隣の街が壊滅状態になったのに比べれば、という意味だったとここに至ってようやく知る。
たぶんだから「一刻でも早く復興を」と動き出せる人たちと、「どうすればいいか未だ分からない」と動けない人たちの両方が共存しているって感じ。
これは正に被災地の縮図なのではないだろうか?
僕は「被災地が商売を始めているんだからお金を使いに行こう」と単純に考えたわけだけど、このスピードについていけない被災者もいるわけで、だけど彼等に配慮して自粛してしまっては、何も始まらない。
経済活動から社会が動き始めるのだとすると、被災者が避難所にとどまる限り、被災地は経済活動すら停止していると言うこと。
だからって被災者に「さっさと動き出せ」と言おうとは思わない。
つまり繰り返しになるけど被災地の状況も被災者の心情も画一的ではないのだから、まだ動けない人は動かないでいいんだし、動きたい人、商売始められる人は動き出しているということを僕らは知るべきなのではないだろうか?
「一つになろう」という思想が危険だと僕が感じるのは、支援する側だけの問題だけではなく、被災者にも何かしたら無理強いを迫ってしまう可能性があるという点。
「一つになろう」は被災者に「さあ、悲しむのはもうおしまい。さっさと復興しようよ、日本中が元気な東北に期待しているよ」と圧力をかけてはいないか。
そうやって「いやゴメン、もうちょっと休ませてよ」という声を塞ごうとはしてはいないか。
世の中には、病気や事故で家族を失って、5年10年立ち直れない遺族なんていくらでもいる。
それなのに、あれほどの災害を経験して、たった2ヶ月ほどで立ち直れると、どうして考えられるのか。
支援するなら、彼等のそれぞれの境遇や心情に配慮する。
そもそも「被災者」という呼び名で画一的にサポートする行為は、支援者の欺瞞であるかもしれないわけだし。
だからお客を待ってる人がいるところには、普通に行けばいいんだと思う。
ということでGWに合わせて準備してきた松島の人たち。
「松島水族館」



「松島遊覧船」

水族館の生き物たちが待っていたかどうかは分からないけど、
遊覧船についてくるカモメたちは、間違いなく人間を待っていた。
何しろいつも以上にエサの食い付きがよかったから(笑)
(この日が運行開始2日目だったようだ)
心安らぐ情景。
瑞巌寺近くの茶屋と、円通院庭園。


そして今回の旅で購入したお土産一覧。
全部、カード使わず現金で買った。
ささやかな自負を述べるなら、被災者たちが明日仕入れる商品代金の足しや、そこで働く人たちの報酬の一部に、今回の旅はダイレクトに貢献できたと思う。
ささやかだけどそう思う。
色んな支援の形や気持ちがあって当然。
たぶんどんな形や気持ちも間違いでない。
僕は「自分も楽しんで」しかも被災地に貢献できると考え、今回の「観光旅行」を選択した。
観光だから寄り道はしなかった。
よって、たぶん数km先にあるのあろう悲惨な現場は一切見てこなかった。
最後に、あの状況下でこれほど急ピッチに観光客の受け入れ体制を整えられた松島の方々へ、心から敬意を表します。 - ←back 1/32 pages next→































