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山形の旅2(鶴岡市街地編)
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2014.10.10 Friday 14:34
山形県鶴岡市。大変失礼ながら関東に生まれ育った僕には「鶴岡」という漢字と響きは鎌倉の鶴岡八幡宮を思い起こさせて、長年鶴岡市の存在を把握出来ていなかったという、これは本当に失礼な話。
でも今回、みっちり歩いてちゃんと鶴岡市を認識したもんね(誰に言い訳してるんだか)
さて、鶴岡市的には最大の観光資源は出羽三山であって、次ぎに温泉や海水浴場のある海岸線、更には映画のロケ地と、今回紹介する建築群には観光的にはあまり力を入れていない、というか、これは山形市にも共通することなのだけど、近代建築は教育施設であって観光施設ではない、という認識がもしかしてあるのではないか?という印象。
というのも鶴岡市街地の観光資源にはほとんど附属の駐車場がない、加えて物産店がない。
これも山形市と共通することなのだけど、どちらも城趾周辺に無料駐車場があって、ただしこれは観光のためではなく市民のため。城趾には大学があったり運動公園があったりで、茶屋も物産店も皆無だから、ここを起点に歩き回ると「いかにもというお土産が一切買えない」という恐ろしい現実と向かい合うことになる(そうして僕は実際に何も買えずに山形を去ったわけ)
いえね、これが僕がよくやる「ありふれた地方都市」を巡る旅であるなら納得なんですよ。だけど鶴岡市にしろ山形市にしろ、市街地に驚くほどの数の観光資源があって、これはどう考えたって観光地ではないか!という印象を抱いたからこその違和感。
だから近代建築イコール教育施設と捉えているのではないかなあという推察に繋がるわけなのです。
さて本題。
山形県には実に多くの明治〜昭和初期に建てられた公共施設が残っていて、そのほとんどが近年まで現役だったと聞く。
鶴岡市で最初に訪れたのは致道博物館。
ここは庄内地方の文化財を移築して保存・展示する施設なのだけど、沿革を読んで驚くのは、その発想の先進性。1950(昭和25)年、旧庄内藩主酒井氏によって地方文化の向上発展に資することを目的に土地、建物および伝来の文化財などが寄附され〜
〜1956(昭和31)年には収集した民俗資料を展示する「民具の蔵」を開設し、以降、1957(昭和32)年には旧鶴岡警察署庁舎(明治17年創建)、1965(昭和40)年には田麦俣多層民家旧渋谷家住宅(文政5年創建)、1972(昭和47)年には旧西田川郡役所(明治14年創建)がそれぞれ移築保存されました〜
先を急ごう。
到道博物館、旧西田川郡役所(明治14年創建)
いいよねー。擬洋風建築のこれも傑作。外観はお役所っぽく威厳を表現したのだろうけど、今ではどこか懐かしく、そして愛らしい。
内部には庄内出土の考古学資料や幕末の戊辰戦争から明治文明開化期の資料が展示されていて、下の写真は昭和30年頃まで使われていたという「箱ぞり」
これにカイゼル髭をたくわけた医者が乗り込んで雪道を滑っていった、などと想像するとたまらなく楽しい。
しかし実はここで一番楽しみにしていた旧鶴岡警察庁舎はなんと解体修理中(; ;)
西洋建築以外だってもちろん好き。
旧渋谷家住宅
しかし解説読むとホント山形県民ってすごいと思う。かつて田麦俣には、谷あいに数多くの多層民家がみられましたが、耐久年限も超え、生活様式の変化によって急速に姿を消したため、1965(昭和40)年にそのうちの一棟を移築保存したものです。
屋内の照明もぎりぎりまで抑えてあって、雰囲気を重要視してるというより教育目的だからなんだろうね、これも。
そして大好きな水回り。
一畳ほどの小部屋。このむさ苦しさの再現は素晴らしい。
到道博物館を後にし、今度は大宝館。
「大正天皇の即位を記念して建てられた、オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームをあわせ持つ、完成度の高い擬洋風建築(山形県鶴岡市観光連盟ホームページより引用)」で、とても綺麗な建物なのだけど、実は内部にはほとんど装飾がない。
使うためではなく記念として建てられるとこうなるんだなーと勉強になった。
そしてようやく、今回の山形旅行のハイライト、カトリック鶴岡教会へ。
明治36年建設のロマネスク様式の教会。
これはすごい。明治36年に、どうして東北山形に、これほど本格的な教会が出来たのだろう。
少し調べて分かったのは、当時着任していたフランス人ダリベル神父の全財産と彼が集めた寄付により建築されたということなのだけど、その当人は建築資金の目処がたったら完成を見届けることなく次の赴任地へ旅立っていたという潔さ。
まあ次の赴任地は山形市だったから、きっと完成してから見に行ったと想像するけどね。
ここら辺の経緯に詳しいサイトを見つけたので貼っておく。
データ・シート明治の洋風建築>カトリック教会/礼拝堂5>20鶴岡カトリック教会天主堂
司祭館
そして教会内へ
いやあ、本格的だよー!
しかしね、これだけ本格的な教会建築ではあるのだけど、床に目を落とすと驚きの事実が。
床がなんと畳み貼り。
長崎の五島列島の小さな木造教会であっても、僕が巡った中には畳み貼りの教会堂というものは一つもなくて、唯一、長野県上田市にある上田聖ミカエル及諸天使教会で床張りにゴザ、という形態に出会ったのみ。
しかし明治期に建築された多くのキリスト教会は、みなこんな感じだったのかもしれないね。
次は「窓絵」
これ、実はステンドグラスではない。ロマネスク寺院特有の半円アーチの枠におさめられた「窓絵」から、聖堂内に四季の陽光が入り、気高い空間をつくり出している。ステンドグラスでも、色ガラスを組み合わせた絵でもないこの教会の窓の絵は、正式な名称を持たない。二重になっている窓ガラスの内側から描いて外側に透明がラスを設け二枚のガラスで挟んだ「貼り絵」(鶴岡カトリック教会のもの)がある。高価なステンドグラスに代えて使用したと考えられるが、現在は日本ではこの教会の他に見ることはできない。(カトリック鶴岡教会ホームページより引用)
そして日本で唯一の黒い聖母マリア像
どうして顔が黒いのかについては諸説があるのだそうで、肝心のバチカンは「経年劣化による汚れ黒ずみ」で押し通していて解釈することを避けているらしい。
個人的には、これは聖母マリアではなくマグダラのマリアであるという伝承(説)を推したいけどね。
最後に、鶴岡市街地で撮った素敵な建物をいくつか公開して、今回の記事は終了です。
どこが素敵なんだと聞かれても、答えようがないのですー(だって素敵じゃん!)
加茂水族館・銀山温泉夜景編に続く
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山形の旅1(羽黒山編)
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2014.10.08 Wednesday 14:01
あることに突然気づいた。
旅行やまち歩きをして、それらをブログにまとめるのが趣味なのだけど、趣味と言いつつその更新頻度はけして多くはない。
その理由が唐突に分かってしまって、どうやら僕は一回の記事の分量が多すぎるのだ。
一回の記事をもっと細切れにすれば旅から帰ってきて直ぐにアップできるし、なにより記事数も稼げる。
ということで、9月の終わりに行ってきた山形旅行を、みみっちいくらいに細切れにしてアップしてみる初体験。
いちおうどんな内容になるのかを書き出してみると、
(1)前書き・寒河江PA車中泊・羽黒山編
(2)鶴岡市近代建築散策(カトリック鶴岡教会など)・加茂水族館編
(3)銀山温泉夜景・道の駅天童車中泊編
(4)山形市近代建築散策編
おお!ブログ4回分にもなるではないか(笑)
実は、仕事の関係で4月以降連休が取りづらくなり、それ故に土曜夜出発、日曜日一日だけの車中泊旅行がメインになっていたのだけど、今回半年ぶりに連休が取れて、ではどこに行こうか、生涯の目標である全都道府県制覇のために訪れたことのない県に行こうか(そのへんの経緯はこの記事に明るい→出雲・松江・米子まち歩き1(サンライズ出雲編))、などと考え、しかし許された時間は金曜の夜から日曜日まで。
性根が卑しいから土曜の朝に出立という行程がもったいなく思えてしょうがなく、で、金曜の夜出発して訪れたことのない県…というと、これが極めてハードなスケジュールになることが判明。
加えて今回は直前まで土曜に休みが取れるかどうか不確実であったので、下調べにもあまり熱が入らない。
ということで、毎回お世話になっているこちらのサイト(近代建築寫眞)をあれこれ眺め、そうして山形県では米沢でしゃぶしゃぶを食べた経験しかないことを思い出し、これだけでは山形県に行ったと胸を張っては言えないと悟り、半年ぶりの連休の行き先を山形県に決めた、という次第なのであった。
(そもそもがこの前書きが長すぎでブログ更新頻度が少ないのではないか?)
ということで早速本文に。
金曜の夜は東北道をひたすら下って、福島県の村田JCTで山形道に分岐。
あとは泊まる場所を選ぶだけで、今回は高速から下りないで寒河江パーキングエリアで車中泊。
ここまで約4時間。到着は22時近く。もう出発前に買っておいた缶ビール飲んで寝るだけですよ。
寒河江パーキングエリア
こんな、紅葉には早すぎるし、かといって避暑する時期でもないのに、明らかに車中泊している車が僕以外にも6台あった(数えた)
またここの駐車スペースは大型車エリアと小型車エリアが離れているので、夜も静かだったことを記録しておこう。
翌朝、僕が最初に訪れたのは出羽三山の一つ羽黒山。お目当てはもちろん国宝五重塔。
随神門
末社羽黒山天地金神社
随神門を内側から望む
石段
そしていよいよ国宝羽黒山五重塔
鬱蒼と生い茂る杉木立の中からこの五重塔が現れると今でも(映像で知っていても)驚くんだから、昔の人はさぞかし驚いただろうなあ。それにしても余計な装飾がない、優美というか、凜とした五重塔。東北地方だから、もっとどっしりしてると思っていたのだけど。
しかしねえ、明治の神仏分離の前は羽黒山は神仏習合だったわけで、それが神仏分離で山内の寺院や僧坊はほとんどが廃され、取り壊されてしまったわけで、五重塔は取り壊されず残って本当に幸いだったと思うけど、江戸時代はこの五重塔の周囲にも多くの建造物があったって言うんだからね。
そういう神仏が混沌として入り組んだ本来の姿を実際に見てみたかったよ。
そして参道で素敵なものと遭遇。
たぶん消防の設備。
他にもあった。
さて、ここから時間を掛けて羽黒山山頂まで登ることも可能だし、それを勧める記事も多いのだけど、これで体力を使い果たしてしまっては以後の行程に支障を来すので(つまり虚弱なんですよ)潔く駐車場までとって返し有料道路を使って羽黒山三神合祭殿へ。
まず僕を迎えてくれたのは古き良きお土産屋さん。ただし右の増築部分は近年のものだろうね。
観光施設の外観に対する考え方がこの数十年でいかに変化したか如実に伝わる。
羽黒山三神合祭殿
これは確かに豪快な建物だ。
三神を一緒に祀った神社というものが他にどれだけあるのかは知らないけれど、三神を祀っているからこれほどに大きいのか、しかし出雲大社や奈良の東大寺もたいそう巨大なわけだし、やっぱり日本人は大きなものが好き。
ここでも変なものを発見。プレハブみたいだけどプレハブではない。
しかもくぐれる(ここで猫と遭遇するがカメラを向けた途端に逃げられる)
これは、羽黒山三神合祭殿から羽黒山参籠所までを繋ぐ回廊なのだけど、そういえばこういうのがある温泉宿ってあったような…
鐘楼堂
出羽三山歴史博物館
新興宗教の神殿・祭殿ですよと言えば信じる人がいそうな、つまり新興宗教の建物とは、単に50年前くらいのモダニズム仏教建築様式に過ぎないのではないか。
新興宗教だからって、びっくりするほど奇異な建物作ってるわけではないんだよね。 次は鶴岡市編。
今回の旅の一番のお目当て、カトリック鶴岡教会などへ。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - | -
赤岩集落(伝統的建造物群保存地区)
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2014.09.11 Thursday 15:30群馬県の草津温泉の近く、中之条町六合(クニと読む)の赤岩集落は、群馬県で初の伝統的建造物群保存地区に指定されたところ。「集落」というと、家々が区画内に点在して集合体を形作っているイメージがあるけど、ここ赤岩集落は通り沿いに家々が連なる、イメージとしては宿場町のような細長い集落。そして背後には山、手前の川を臨む急斜地の中腹にあって、あまり豊かな環境とは言えない。しかも資料によると、養蚕の施設が残っているとは言え養蚕がこの集落を豊かにすることはなく、ほとんどの家では何かしらの副業をこなしていたという。そんな、たぶん日本中に沢山あった似たような集落(の伝統的建築物)の一滴を辛うじて救うことになったのが「伝統的建造物群保存地区」という国の指定。その辺のリアルな経緯は下の上毛新聞の2006年頃の連載記事に詳しい。第5部・六合・赤岩の景観保存>2・住民の意識 歴史的価値見直すちょっと古いサイトのため、前の記事にも次の記事にも行けなくなっているので念のために連載トップページのURLも貼っておこう。「絹の国の物語」個人的にとても気に入ってる記事。地方紙ってこういうのがあるからいいよね。さて、大変失礼ながらこんな辺鄙なところを訪れる観光客なんて滅多にいないだろうと、実際、僕が訪れたときは僕一人だけだったし、などと考え、それでは僕がブログに記しておけば他の人の参考になるかな、と思って少しネットを徘徊して見たら、これが意外とあるんですね、赤岩地区を紹介するブログが。ということで写真も少なめに(だって皆さんの写真のが綺麗なんだもの)コメントも少なめに。一見すると廃屋か?とおぼしき土蔵があったりするけど、敷地内は掃除が行き届いていて、住民の確かな生活の息吹が感じられる。あと、とんでもなく広い敷地の家はない、が、狭い敷地にも松などの樹木、生垣、花壇などが整えられていて、散策していてとても気持ちがいい。赤岩集落でもっとも重要な建物はたぶん次のもので、3階建ての土蔵造りという珍しさ。(上の写真、ちょっと傾斜しているように感じられると思うのだけど、カメラの水平機能を使って撮っているので、たぶん水平は取れている。だから実際に少し傾いている?)そして、横方向から見た方が、その異形な様子が分かりやすい。下の建物は修復中なのだけど、建具をアルミサッシにするのではなく、木製建具での修復。もしかしてこれが伝統的建造物群保存地区に指定されたメリット(そして家主の意識変容)なのかも。上の修復中の家と、よく似た手前の家。赤岩地区に現存するもう一つの3階屋。赤岩地区にあっては珍しく家屋が奥まっているので全景は通りからはうかがえず。東堂斜面に石積みした上に建つ。写真ではよく分からないけどすぐ下は谷になっている。上(かみ)の観音堂18世紀に建てられたと推察される、赤岩地区で最も古く、唯一の茅葺き屋根。資料で「唯一の茅葺き」と知って驚いたわけだけど、早々に茅の葺き替えを諦めたからこそ古い構造のままの家々が残された、ということなのかもしれない。観音堂から見下ろした集落。確かにかやぶき屋根が見当たらない、ゆえに、このアングルだとひどく平凡に感じられるし、ここが伝統的建造物群保存地区とはにわかに信じがたい。赤岩集落、遠景。厳しい環境であることが存分に伝わってくる。こういう僻地に住まざるを得なかった過去の暮らしぶり、不便さは格別のものだったと想像するけど、現代において住み続けることも、別の意味で困難を伴うのだろうなと推察する。僕は確認できないけど、この集落を含む多くの僻地の集落は、100年後どうなっているのだろう。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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【足利】伊勢町・大町の建物
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2014.09.03 Wednesday 16:338月はとうとうどこにも遠出が出来なくてブログネタもないので地元の小ネタで誤魔化そう企画。足利市というところは明治から戦後までたいそう栄えて尚且つ全く戦災に遭わなかったというのだからさぞかし近代建築の宝庫だろうと、その歴史を知れば誰もが考えると思うのだけど、これが驚くほど残っていなくて、その点は逆に地域社会学などの貴重なテーマとなり得るのではないか?などと夢想して自分を慰める昨今の自分。しかしぼやいてばかりでは進歩がないので、これからはときおり足利の写真もアップしていこうという、その第一弾。完成当時は驚かれたんじゃないかなあと想像する、外柱(模擬柱というのかなあ)が交差して独特の気品を醸し出しているビル。こちらも模擬柱なのだろうけど、アーチ状になっているのがお洒落。洋品店って感じがする。タイル張りでなかったらかなり地味なビルだけど、タイル張りだからこそのこの重厚感。角っこの利点を十分に引き出している。次は、なんとなくバウハウスっぽいというか、じっくり眺めているとますます意図されたモダニズム建築に思えてくるのだけど、どうでしょう?この思いは裏側に回ってみると更に強くなる。たまたま外階段から漏れる日差しのせいで余計にモダニズムっぽさを醸し出している。最後は、今回の建物の中では最も近代西洋建築的な建物。戦後間もなく、もしかしたら戦前の建物なんじゃないかな。外壁にレリーフがあったり、窓の手すりが鉄製のチューブ状だったり、けっこう強いこだわりを僕は感じる。正面から見ると2階部分も広そうだが、裏に回るとかなり細長い部分がある。さきほど書いた鉄製のチューブで出来ているみたいな手すり。今は玄関ではなくなっている壁面に残るレリーフ。落ちていた(放置されている?)レリーフらしき残骸。図案はたぶんヨット。これからは、こんな感じで写真の少ない記事も書いていく予定。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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南会津の止まった時間
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2014.08.12 Tuesday 17:19福島県というのは思いのほか広い、広いうえに気候・風土・文化が大まかに縦方向に3つに分割できると聞く。東から浜通り・中通り・会津。その会津の懐がとにかく深い、いや、はっきり言ってしまえば交通の便がとても悪いのですね。しかしそれ故に大内宿みたいな、現存してるのが奇跡みたいな集落があるのだけれど、奇跡的に残っていたのは大内宿だけではなかった、それが今回訪れた南会津の「前沢曲家集落」南会津町観光物産協会舘岩観光センターの前沢曲家集落紹介サイトというわけでここに行きたくて7月中旬の土曜日の夕方に地元を出発、この日は最近のとんでもない猛暑ほどではなかったものの18時の時点で31度くらい。それが南会津に近づくにつれどんどん下がっていき、宿泊予定の道の駅ちかくの日帰り温泉に着いた頃には17度。南会津は「南」のくせしてけっこうな豪雪地帯らしい。地名に騙されてはいけない。上の写真は泊まったホテルではない。このホテルに併設されている温泉に入るため寄ったのだ。会津アストリアホテル「白樺の湯」この温泉はスタッフは常駐していなくて、一般500円の利用料金は壁に括り付けてある箱に入れればいい。なんとなくそんな予感がして500円玉を財布の中に残しておいて正解だったわけだけど、細かいのがなかったら悩んだだろうなー(まあ併設のホテルのフロントに行けばいいだけの話ですが)こぢんまりとした温泉だけど清潔だし半露天風呂もあるし、付近に行かれる方はお勧めですよー。実際に車中泊したのは「道の駅 番屋」というところで併設の蕎麦屋が拡大して道の駅になったという珍しい道の駅。駐車場は広くはないけどトイレも綺麗だし、何よりも恐ろしいくらいに静か。さて、いつも通りに前振りが長くなってしまったけど翌日いよいよ「前沢曲家集落」へ。まずは水車が訪れた者を迎えてくれる。そして目に飛び込んできたのがこの情景。ここは白川郷ですか?!ここがすごいのは、内部が公開されてる家屋はたったの1軒で、あとはほとんど住んでる人がいるってこと。そういう意味ではほとんどが観光施設となった大内宿より白川郷に雰囲気は近い。すぐそばの山から湧き出す水は日常生活に欠かせない。飲んでみたけど柔らかい軟水で、これでお茶を入れたら美味しいだろうなー。上の写真のアングルだと「曲屋」の特徴がよく分かる。玄関っぽい出っ張りの部分に馬小屋やお風呂や便所などが設けられていたそうだ。裏山に神社があって登れるので行ってみた。鳥居があると、こういうアングルで写真を撮りたくなりませんか?(↓)念のために書いておくけど上の写真は雑草ではない、蕎麦の花です。さて、見学が終わって駐車場入り口にある案内所の職員に「とてもよかったですー」と声を掛けると、反対側の山に登ると集落の全体像が見下ろせるビューポイントがあるからぜひ行くようにと勧められる。何でもそういう要望がとても多くて数年前に整備したのだとか。案内所に掲示してあるポスターにまさにその写真が使われていて、なるほど、白川郷の例の有名なビューポイントと似ている。時間もまだ早かったので登ってみることにしたのだけど、これがけっこうな悪路で、高齢者とか小さな子どもはたぶん登れない。というか、僕は行ったことをけっこう後悔したし。まあ、登ってしまえばこんな素敵な展望が開けていたわけだから行って良かったわけなのだけと。この集落は、実は明治40年の大火のあと、わずか数年の間に復興されたもので、都市計画ならぬ農村計画?というのか、とにかくこういう経緯で作られた集落が、ほとんど当時のまま残されている点になによりも僕は驚く。そして同時に、たぶん当時は区画整理という概念がなかったのだろう、ほぼ全家屋が焼け落ちたというのに、再建された家並みは、大火以前(たぶん江戸時代)とそれほど変わっていないという驚き。現代日本に生きる僕らは、道は真っ直ぐな方が合理的だし、区画は整然としていた方が経済的と信じて疑わない。そしてそうは考えなかった昔の人々を「科学的でない」とか「非合理的」と切り捨て、現代人より劣っているとする姿勢こそが、実は自らを追い詰めているだけなのではないかと最近とみに考える。「合理的であれ」は合理的な判断、行動、生き方をも強い、己の不合理な反応や感想を否定し打ち消そうと躍起になる。しかし人間なんて不合理だし矛盾に満ちてるし、自己嫌悪や劣等感と闘ったりなだめすかしたりして共存してるのが実際なんだろうから。回り道を好んで選ぼうとは思わないけど、回り道を選んでしまった場合、自分を責めないようにしたいな、と、50過ぎて気づくってどうなんだ(笑)閑話休題前沢曲家集落を散策した後は、大桃の舞台へ。現在の建物は明治28年(1895年)に再建、南会津が幕府の天領として栄えた頃の名残で農民歌舞伎が上演されていたという。この茅葺き屋根は兜造りと言って、全国でもかなり珍しいものなのだそうだ。現在も年に1回程度、歌舞伎や踊りが上演されるとのこと。この場所に一人佇み、映画や音楽、演劇好きとして、色んな思いがこみ上げてきた。さて、南会津の旅はこれでおしまい。最後は恒例の廃墟・廃屋を。行きに見かけて帰りに立ち寄った古い橋脚。栃木県の塩原温泉にあった日帰り温泉施設と思われる廃屋塩原温泉は、職場や会合の宴会で数回訪れただけなので、いつかじっくり歩いてみたいなあ。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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大学という保管庫(信州大学繊維学部)
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2014.07.28 Monday 14:15上田市の後編信州大学繊維学部の前身は上田蚕糸専門学校で明治44年(1911)に開校、当初は養蚕科と製糸科で発足し、大正8年(1919)に絹糸紡績科を設置、後に信州大学に吸収される。ちなみに僕の地元足利市も繊維の町であってなんと!明治18年(1885)に足利織物講習所(のちの県立足利工業高校)が開設。かたや国立大学の礎となりかたや公立高校にとどまったという、地域性なのかタイミングだったのか、こっちが似ていると勝手に思っていた上田市と足利市は明治の始まりからすでにもう違う道を歩んでいたわけなのですね(しみじみ)そんな信州大学繊維学部の構内を日曜日の早朝から歩き回る。ここのシンボルと言えば昭和4年完成の講堂。木造二階建、切妻造、瓦棒〔かわらぼう〕鉄板葺、下見板〔したみいた〕張りの建物で、正面に切妻破風を二段重ね、三角の張り出し窓を付け特徴ある外観構成を持つ。様式的には木造ゴシック系の建物であるが入口の持ち送りや三角の張り出し窓、時計回りの意匠には、直線を生かしたセセッションの意識がみられ、このセセッションは過去様式からの分離を意識的に行った新様式で、アールヌーヴォーが曲線的であるのに対して直線的で、実用性を重視している様式である。以上、上田市文化財マップより要約して引用そのゴシック様式の講堂はこんな感じ。
この三角の張り出し窓が独特な雰囲気を作り出している、言うなれば「おとぎ話に登場する中世の建物」のような雰囲気。いやもっとはっきり言ってしまえばテーマパークにあっても違和感ないだろうなってこと。もちろん賞賛しているわけですが。
たとえばフランスのモンサンミシェル島に行くと日本のテーマパークにそっくりで、そこにまず驚くのです(僕だけ?)。しかし日本のテーマパークがモンサンミシェル島などの真似をしているだけのことで、ヨーロッパの街並みやこの信州大学繊維学部講堂に何かいちゃもんがつけたいとかそういうことではなくて、逆にテーマパークにありそうな建築や街並みと出会うとテンションが上がるわけですね。ホントにあったんだ!ってことで。
平日だって中に入れることの少ない大学の講堂。この日は日曜の(しかも午前9時くらい)なんだから開いてるわけがない。窓からこっそり中の様子をうかがう。さて、信州大学繊維学部の魅力(遺産)はこれだけではない。正確にはこれは信州大学繊維学部だけの魅力ではなく古い大学に共通する魅力(遺産)なのではないかと思ったのが今回のブログのタイトル。書庫(旧アイソトープ実験室)昭和5(1930)年,生理実験室として竣工。鉄筋コンクリート造。屋根は寄棟および切妻のセメント瓦がわら。窓は上げ下げ窓で、外壁の仕上げのモルタルに幾何学的な装飾が帯状にある。ゆるい勾配の屋根と、それに連なる鉄筋コンクリートの 庇ひさしが,水平方向への印象を強めている。ちなみにこれ以降の建物の解説は全て「信州大学繊維学部アーカイブ」から要約して引用しております。次は、ちょっと正確なところが分からないのだけど書庫のような建物。そして、この日もっともテンションが上がった(旧)サークル棟(旧精密素材工学科棟)このサークル棟は、昭和2(1927)年,蚕糸化学工場及び実験室として竣工。陸屋根の鉄筋コンクリート2階建。外壁は人造石洗出し仕上げ。(種石とセメント・石灰の混練りを塗り、表面を水で洗い出して仕上げる。品格の高い仕上りで,高級建築に適した工法とされる)腰壁はスクラッチタイル張り。最初見つけた時は大学によくある素っ気ない講義棟かと思ったのだけど、回り込んでみると意外と装飾が細かい。下の写真の張り出した部分とか。窓から内部を撮影。裏側次は、帰宅後調べるまで何の建物だったか全く分からなかったもの。「旧千曲会館」千曲会館は上田蚕糸専門学校の創立25周年を記念して,昭和10(1935)年に竣工。 木造2階建て,下見板張り。講堂と似た感じがするデザインで,玄関車寄せの3本1組の柱や,スロープの蕨手(けっしゅ)の立ち上がりが凝っている。
なんか軽井沢の別荘地が似合いそうな建物で、応急的ではあれ修復の跡が見られるので完全に放置というつもりではなさそう、なそさうなんだけど、このままでは近いうちに崩壊が始まってしまうよね。
もったいなーい!
玄関からと、裏口から内部を覗いてみた。
内部は思ったほど劣化していないので、修復保存するなら今のうちですよ!信州大学さん。
最後に守衛所大正元(1912)年竣工。当時,現在のメインストリートは「祢津ね つ街道」と呼ばれる公道で正門は南に向いており,この守衛所も,ほぼ敷地中央の南側にあった。その後,祢津街道の南側にも建物が建ち,昭和4(1929)年度に,西側に正門が移動するのに合わせて移築された。ということで改めて今回のタイトル。あてどなく地方都市を徘徊するより、古くからある大学を目指して出掛ける方が、単に建築物目当てなら外れはないのではないか?と同時に、たぶんこういう大学が残っている地方都市には、やっぱりそれなりの街並みや建物が残されている、という予感。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - | -
上田市のキリスト教文化
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2014.07.02 Wednesday 11:166月中旬に長野県上田市に行ってきたのでその記録。1回目はキリスト教建築を、2回目は信州大学に残されていた古い建物を取り上げる予定です。ちなみに今回も車中泊。足利市から上田市までは高速で2時間少しで行けてしまうから当日早起きして行っても全く問題ないのだけど、そんなことしていたら車中泊をする機会がますます減ってしまうので、なんというかある意味強引に前日夕方に出掛けてみた。で、一応前日に出掛けた理由付けみたいな感じで日帰り温泉に立ち寄る。「しなの木温泉 ひな詩の湯」インターから近いし駐車スペースも広いのだけど少しお湯の温度が低いかなー、特に露天風呂が(個人的な感想)泊まった道の駅は「上田 道の川の駅 おとぎの里」夜に到着して早朝に発ったのでいったい何が「おとぎ」だったのかは分からないのだけど、ここも新しくて静かで車中泊に適した道の駅であった。あと着いた時にすでに地元ナンバーの車が沢山あって翌朝にもその大半が残っていたことから、ここは近隣住民の集合場所にもなっているのではないかと推測。さて本題です。その長野県上田市は日本のキリスト教の歴史において割と重要な都市なのであったと、上田市から帰ってきてから知るといういつものパターン。59ページの論文だけど、リンク先のPDFにその経緯や事実に関して詳しい。「明治初期における信州上田のキリスト教の受容」目から鱗だったのが以下の記述。プロテスタント的な徳目が,自律,自助,勤勉,正直,質素,節約などとすれば,これらの生き方は,当時の武家や伝統ある老舗の商家・企業家,旧家,庄屋・富農などにも備わっていたものである。日本的伝統と何ら矛盾するものではなく,それらに類似したものがわが国にも存在していたと言えよう。カトリックは一般庶民に馴染みプロテスタントは富裕層に馴染んだとは考えたこともなかったけど、プロテスタント(ルター派)と資本主義とは親和性が高いことが既に知られているわけだから明治期の日本で同じ現象が起こっても不思議なことではないのかも。そんな、上田では弱い立場(?)の「カトリック上田教会」告解室のドアの上にある電光掲示板。なんか見覚えあるなあと考えたらドラマなどでよく見るあれですよね、「手術中」慎ましい司祭館次が、上田を訪れた一番の目的であった「上田聖ミカエル及諸天使教会」見ての通りごく普通の日本建築であるのだけどしっかりと十字架が掲げられている、日本に2棟しか残っていない純和風のキリスト教会。珍しいのは外観だけではない。礼拝堂の内部も純和風。正面に仏像があっても違和感ないよね。もうすぐ日曜礼拝が始まる時間で信者のみなさんが集まりつつあるところだったのだけど、写真撮影の許可を願ったら快諾下さり「ずっと前までいって撮りなさいよ」などと勧められるままにシャッターをパチパチ。入り口の両脇には下駄箱があって、それぞれにイエスの弟子の名前が記されている。幼稚園が付属しているからなのかどことなく幼稚園っぽくて微笑ましい。続いては「上田新参町教会」これが上田の面白いというかすごいところなのだけど、この教会は上で紹介した純和風の上田聖ミカエル及諸天使教会と実はほぼ同じ時期に建築されている。上田聖ミカエル及諸天使教会が昭和7年。上田新参町教会が昭和10年。「あっちが和風ならこっちは本格的な西洋建築だ!」などという話があったのかどうかは知らないけど、わずか数年の間に立て続けに礼拝堂が新築された当時の市民は何を感じたのだろうね。ちなみにここにたどり着いた時には既に日曜礼拝か始まっていて内部の見学は出来ず(涙)最後は「旧宣教師館」上田市HP > 学ぶ・遊ぶ > 博物館・美術館 > 旧宣教師館明治37年(1904年)カナダ・メソジスト派新参町教会の婦人宣教師の住宅として建てられ、もとは梅花幼稚園(上田市大手)に隣接しており、昭和15年(1940年)戦況の悪化により宣教師たちが帰国することになり、この宣教師館を三吉敬蔵氏が購入して住宅兼病院としていたが、建て替えをすることになり、平成5年に三吉氏から上田市が譲り受け、現在地に移築復元される(要約)アーリーアメリカンな洋館(つまり堅固ではない木造建築)が、実際に人が住んでいたというのによくぞほぼ原形を留めて残っていたものだ。この磨りガラスも当時のものだという。2階のバルコニー。さすがにここにビールは似合わない。紅茶を気取っていただきたい。そしてこの宣教師館には使用人の部屋が残っていて、これが和風な作りになっている。まず一階の使用人室。次は二階の使用人室。やはり洋風な生活は苦手だったんだろうな。畳がないと落ち着かないという気質も、これからはますます廃れていくのだろうけど。あと話は逸れるけど僕の子どもの同級生には「家に炬燵がない」なんて家庭もちらほらあって、畳はなくてもいいけど炬燵文化が滅んじゃまずいだろ!と密かに危惧していたりする。この折りたたみ椅子もとても古い。明治期の物かどうかは分からなかったけど本革張りの折りたたみ椅子という贅沢。上田市については次回、信州大学編に続きます。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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歴史の痕跡が残っていないその理由
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2014.05.22 Thursday 12:08「新潟県長岡市」というまちは、何となく歴史のあるまちであるという印象があって、大きな花火大会もあるし、適当に歩き回るだけでも掘り出し物は腐るほどある…というのが実際に行く前のイメージ。しかし行ってみた印象はとても物足りなく消化不良で、それで帰ってきてからネットで長岡市について少しだけ調べてみた(行く前に調べておけという声が遠くから…)結論から述べれば長岡市は確かに歴史のある中越の中心都市であったわけだがまず戊辰戦争で中心地のほとんど全てを消失し、しかし明治期に順調な成長を始めるが昭和期の空襲により再び中心地のほとんどは焦土と化し、それらの人災の合間を縫って襲いかかる天災(地震)。歴史的建造物がほぼ皆無なのはそのせいだし、逆にこれだけの災難を経験して尚かつ新潟県第二の都市であり続けていることに感嘆せずにはいられない。そんなわけで山古志の棚田を見たあと僕は長岡市街地へ移動し駅周辺の駐車場に車を停め上越線で宮内駅へ。この宮内駅から歩いて行ける距離に摂田屋という地区があり、日本酒好きなら知っている「吉乃川」を中心に醸造元が集中している一帯がある。インターネット新潟県まちなみ博 醸造の町〜摂田屋まずは吉乃川の酒蔵倉庫。前面を覆い尽くす蔦が活き活きしている。次は「サフラン酒」という不思議なお酒を作っていた「機那サフラン酒製造本舗」の建物と土蔵。土蔵の極彩色の装飾は「鏝絵」というそうで、これが施されている土蔵はとても貴重なものらしい。次は長谷川酒造。残念ながら飲んだ記憶はない。ちなみに何ヵ所も酒蔵を回っているが日曜日で施設見学は軒並み休みで(くわえて車だし)一度も試飲をしなかったという蛇の生殺しのような一日でもあった。ふたたび吉乃川の広大な醸造工場地区。越のむらさき。醤油の醸造元。ここも休みー。この摂田屋という地区、そして宮内駅周辺にはこれだけ歴史的建造物が残っているのだから街並みもたいそう趣があるだろうと思うわけだけど、これが驚くほど残っていない。空襲がこのあたりまで及んだのかどうかは分からないけど、豪雪のせいなのか中越地震などの天災のせいなのかそれとも住民の気質や行政の意向に関係していることなのか。さて、摂田屋を一回りした後は再び電車で長岡駅へ。そこで冒頭の記述に至る消化不良に陥るわけです。それでも気になった建物をいくつか。これは空襲を免れた建物かなー。空き家・廃屋は何故か高い塀に囲まれていることが多いというのが僕の経験則で、このように塀が低い空き家は珍しい。肝心の礼拝堂は面白くなかったのだけど附属幼稚園の入り口は可愛らしかった。長く続く寂びたトタンの壁。この建物もかなり古いと思うのだけど。あとこのように軒先が張り出しているのは雪の多い地方固有の様式。中越地震で倒壊し再建された(と記してあった)神社。柱にしがみついている狐が斬新。通常の狐様もかわいい。これも雪の多い地方固有のショーケースに入っている(かのような)神社。そしてそんな長岡市で個人的に楽しみにしていたのが下のカトリック表町教会。1963年(昭和38年)完成の3階建てコンクリート製の教会堂で正面には高さ10m近い大きな被昇天の聖マリアのモザイク画が施されいるのが特徴的。、礼拝堂も見学したけどたぶん日曜礼拝の直後だったらしく信者も残っていて、隅っこの席ですすり泣きながら祈りを捧げている女性がいたり浄財を入れる布袋にはお札や貨幣がぎゅうぎゅうに詰め込まれていたり、日本の人口の0.35%しかいないカトリック信者ではあるけど、逆にカトリック教会はどこでも地域の信者と密接につながっているのかもしれない。コンビニより多い仏教寺院とは大違いだ。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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山古志の棚田
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2014.05.14 Wednesday 18:17僕の旅行スタイルは、先月の山陰行きのような普通の旅行と、自宅から200キロから300キロ圏内で一泊一日もしくは一泊二日という二本立てが基本。今年は念願の車中泊デビューも果たしたことだし前夜に現場近くまで行って翌日お昼頃まで観光して早々と帰路につく、ということが可能な観光スポットを探しているのだけどこれがあんがい難しい。難しいけどそれは逆に「知られていない観光資源の多さ」につながっているわけで、目的地が決まると周辺の観光スポットがどんどん見えてくるという体験を何度もしているから、とにかく目的地を決めるって作業が一番大事で大変なのだ。
そんなしだいで今回は「新潟方面なら仕事が終わってそのまま出掛けるのに適しているのではないか?」という安易な思いつきからまず新潟の道の駅について調べる、というか「全国道の駅ガイド」をだらだらと眺める。すると温泉施設のある「ちぢみの里おじや」という道の駅を発見。次ぎに「車中泊 ちぢみの里」でネット検索をする過程で、この道の駅近くに棚田があることを知るに至ったのだ。
「棚田」の存在はもちろん知っていたし関心がなかったわけではないのだけど、まさか本当に自分が訪れることになるとは正直思ってもみなかった。というか行ける距離にあるとは考えてなかったわけで、改めて北関東自動車道の開通は地元民にとって本当に画期的な出来事だったのだなーとその喜びを噛み締めた。
さて、新潟県長岡市山古志はかつては山古志村であって、中越地震のときに甚大な被害を受け集落が孤立したことで有名であるが、今や災害の痕跡はどこにも見当たらない(正確には僕は見なかった)、「日本の原風景が残る村」である。
ただし震災時に孤立したことからも推察されるとおり、行く道はとても険しい。幅2.5mというからどうやっても車がすれ違えない道路が延々と続き、運良く対向車とは出会わなかったけど、この住環境はあまりに厳しい。
そしてようやくたどり着いた、この風景。
写真も、まあまあいい感じに撮れたと思うけど、この風景が眼前に広かったときは本当に息を吞んだ。
少しズームして撮った写真。
同じ区画を別のポイントから撮影。
見渡せば、他にも多くの棚田があるのだけど距離が遠い。あと棚田は高い地点から撮らないと水面に山の緑が映り込んでしまい綺麗な写真にならない。
下の写真がその例。
最後は唯一すぐ近くで見られた棚田。
本当に素晴らしい景色。
だけどこれは歴史的には人々が元々のテリトリーを追われ(もしくは逃げ)たどり着いた辺境の地を知恵と執念で開拓した結果というか証人というか、「日本の原風景」などというほのぼのとしたものではないんだろうけどね。
あと「日本の原風景」とは言うけど農業が盛んな栃木県に生まれ育っても実際に棚田を見るのは初めてであって、原風景という表現はその背景にある過酷さをぼかしてしまうのではないかと僕には思えてならない。
いずれにしても中越地震ではこれらの棚田も相当な被害を受けたと考えられ、ここまで復興をされた関係者の努力には本当に頭が下がる。十年後の山古志はどうなっているのだろう。その確認のために(あの恐ろしい道を再び通って)もう一度訪れたいと僕は思った。
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滝桜と三春のまち
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2014.05.09 Friday 20:51福島県三春町に国の天然記念物で日本三大桜でもある滝桜というものがあることはだいぶ前から知っていて、だけどその存在を知っているだけでこれまで一度も訪れたことがなかった。そして3年前の東日本大震災がなかったら、もしかしたら一生観に行かなかったかもしない滝桜。何故それほど魅力を感じてなかったかというと「たった一本の桜のためにわざわざ福島まで行きたくないよねー」という、おまけがついてないとお菓子を買わない子どもみたいな理由…しかし僕は今年とうとう滝桜を観に行った。というのも実は東日本大震災以降、最低1年に一回は東北地方を訪れお土産(お酒ですよお酒)をいっぱい買うことで自分なりの支援がしたいなあと考え、震災の年のGWには宮城県松島と福島県いわき市・茨城県北茨城市へ、一昨年は会津若松、昨年は福島県白河市・郡山市へと、行く先々で地酒を買い求めただけじゃんと指摘されればその通りなのだけど、そういう経緯で今回の三春町が今年度東北地方旅行の候補にあがっただけというのが真相。だから先の震災がなかったら「すごいらしいけど行ったことのない名所」のままで終わっていたかもしれない。縁とは不思議なものですねえ(しみじみ)あ、そして初めて滝桜を観た僕の感想は「もっと早くに来ればよかった!」「何度も何度もリピートしたかった!」というものでした。いや実際素晴らしいですよ。あと、来年以降に「初めて」滝桜に訪れる方のために僕の選んだ方法も一応公開しておきましょう。というのも、満開時の滝桜周辺の混雑はとんでもないらしいので…ネットであれこれ調べて学んだことは、のんびり出掛けたのではすさまじい渋滞にはまるだけだと言うこと。そこで今年3月に車中泊デビューを果たした僕は2回目の車中泊を決定。前日のライトアップがされている時間に現地に到着し、夜桜を愛で、三春町中心街で車中泊をし、朝一番で再び滝桜を愛でてやろうというものなのでした。車中泊したのは三春町役場の直ぐ隣の観光駐車場。24時間使えるトレイは新しく清潔で、車の往来も少なく、他にも車中泊をしている車があるので安心感もあってよかった。ただ4月中旬の福島はまだとても寒いので防寒対策はお忘れなく。ではさっそく滝桜の写真を。とは言ってもネットにはすでに高画質で綺麗に画像があふれかえっているので行った証拠みたいに数枚だけ。車中泊をした翌日は朝5時に起き、急いで身支度を調えて滝桜近くの大駐車場へ。下がその着いたばかりの写真なのだけど、これ朝の6時前ですよ。みんな真夜中に出てきたのかそれてもここで夜を明かしたのか(ネットで見かけたブログにはここは車中泊禁止とあったのだけど)いずれにしてもすさまじい出足の早さ。しかし駐車場で驚いていた僕が更に驚くことになったのは、開花シーズンに合わせて営業されている軽食の仮設店舗や屋台が何軒も既にオープンしていたこと。しつこいけど朝の6時前なのに!そしてようやく三春の滝桜に到着。順番は逆になってしまったけど夜の滝桜。とにかくこれが一本の木だというのが信じられないほど滝桜は大きくて、これくらいになるともう単なる植物ではなく霊的な何かが宿っていても不思議でないレベル。あとこの滝桜を観て、やっぱり桜は夜桜がいいなあと改めて思った。だけど過去に気に入った人間の2,30人はさらっているのではないかと思えるくらいに幽玄で妖しい。さて、まだ混んでない間にじっくり滝桜を堪能した後は再び市街地に戻ってまち歩き。たまにはアマチュアカメラマンっぽいアングルで。一般的に綺麗な写真は以上で、以後はいつもの古い建物写真が続きます。まずは2階の窓ガラスにおびただしい量の補強テープの建物。これたぶん冷気侵入防止のためだよね。「ぬる湯旅館」という、たぶん今は公衆浴場として営業しているかつての旅館。おそろしく鋭角なアパートの角。2枚のシャッターの錆が、どうしてこれほどはっきりと互い違いになったのか不思議なガレージ。普通の2階建てより上背のある建物。1階も2階も天井まで2メートル以上きっとある。なんてことない長屋に思えるけど玄関のガラス戸に洒落た細工がある建物。もしかしたら、かつて芸事の師匠の住居や稽古場だったとか、そんな感じ。最後は三春町文化伝承館。明治期に一代で財を成した吉田誠次郎が自宅として建てたもので、至る所に精巧な彫刻が施された見どころの多い建物。ここから眺める桜もとても綺麗だった。三春は本当に「桜のまち」だと感じられた短い今回の旅であった。| onai shigeo | 街歩き・旅行 | - | - | - | - |
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