バースデイケーキ

家族にクリスマスが誕生日の者がいて、思い返してみたら一度も彼女はケーキ屋のバースデイケーキというものを食べたことがないんだなあ、何だかとても申し訳ない気分になる、この季節。
どういうことかというと、世間はクリスマスムード一色に染められて、全てのケーキ屋からバースデイケーキが消えてしまうから。

一度、市内で色んな意味で(味やホスピタリティなど)大変に評判の高いケーキ屋があって、ここなら事情を話せばバースデイケーキを用意してくれるのではないかとほんの少しだけ期待して出掛けてみたのだけど、ここでも極めて(というか超繁忙記なのだから当たり前なのだけど)ビジネスライクに「クリスマスケーキしかご用意出来ません」との返答。

一年365日、誰の誕生日でもない日というのはたぶん存在しないわけで、ちょっとした偶然にこういう落とし穴が存在する。

彼女がこのことに気づいていたのか、気にしていたのか、それは分からない。
ただこの時期になると、親として他に何か手立てはなかったものかという後悔の念がよみがえる。

いつか彼女が誕生日にバースデイケーキを食べられますように。
(ハッピーバースデー)
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改めて宗教とは何だろうかについて考えてみた(メモ)
人が人である根拠は「分かること」と「分からないこと」の両方を意識出来ること。そもそも動物には分かったという自覚はないだろうし全て分かったらそりゃ神でしょ、って意味。人間は分かることと分からないことどちらもあると知ってしまった存在

人は分かることを集積していって知識や文明を築き上げた。でも分からないことに関しては、ただ分からないことが増え巨大化していくに任せるしかなかった。つまり分かることとは「分からないことを知ること」そして分からないことの始末に困り果てた。

仮に文明にエントロピーの発生が必須であるならそれは恨みや憎しみなんかじゃなくて「分からないこと」に他ならないのではないか。そして処理できないエントロピーを一気に昇華させるために誕生しのが宗教なのではないか。

実は恐怖や不安は「分からないこと」から生じる。つまり分からないことが人間生活を脅かす。しかしこの「分からないこと」を「分かったこと」に変換できてしまえば話は簡単。ここでたぶん歴史上初めて「神」という概念が発明された。

とりあえず「分からないこと」全てを「神のみ業」とする。分からないこと恐ろしいことは神のせいにして人間にはどうしようも出来ないことだと納得する。たぶんこれが原始信仰。ただこれだけでは未完。全ての「分からないこと」を飲み込んでしまった神は全知全能でありながら全ての理不尽さをも行使する。

だからここで「代理人」が必要となる。神との意志疎通は代理人にしか成し得ず、人間は代理人を通してしか神と会話することが叶わない。代理人の役目は神の本質である「分からないこと」と噛み砕いて人間に説明すること。ここで初めて「分からないこと」の一部が「分かること」に大転換される。

つまりここまでの説明で分かったことは、宗教とは人間が文明を持つと同時に背負ってしまったエントロピーを「分かること」すなわちプラスのエネルギーに転換することを目指した画期的な哲学であり理論なのだと。

このように「代理人=教祖」がいないと宗教は成り立たない。そしてこの代理人の発明こそが、人類史上画期的な転換期になったのではないかなと(ユダヤ人以外にほとんど広がらなかったユダヤ教を想起。ユダヤ教には代理人がいない)

宗教は「代理人」を発明したことで画期的に成長し、人間も神(分からないもの)ではなく人語を解する代理人と対峙すればいいのだから気楽。しかしこれが逆に独占とか特権という概念をも生み出してしまったわけで、便利なものは凶器にもなりうる典型例とも言える。

この転換点はもちろん初代教祖が死を迎え二代目に引き継がれるときだと思うのだけど、たぶんこの宗教構造は既に研究されていて、初代教祖がそもそも特権を得ようとする教団が出てきたと。そして更にはその特権を得たいが為に教団を創設するとかね。

僕は長らく宗教の本質はその教義にあると考えてきたのだけど(だから目新しい教義さえ思いつければ宗教は作れると考えていた)どうやらそうではない。宗教とは「分からないもの=恐れや不安」を代理人を通じて「分かるもの=天国や霊性の存在」に翻訳すること。

つまり教義と翻訳は別物であって極論教義は既存の経典丸パクリでいいのだと。では翻訳とは何か?それは例えば天国を別の言葉に置き換えること。救済を別の言葉に置き換えること。原罪を別の言葉に置き換えること。

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足利市民のプライドを取り戻す試み(2)
平成19年、足利市は突如として「足利学校と足利氏の遺産」に関するユネスコ世界遺産への登録活動開始を発表した。


これはまあ、前提条件である国の登録リスト入りの段階であっさり却下されたわけだが、足利市はそれでもめげずに、同じ近世の教育資産を持つ茨城県水戸市、岡山県備前市、大分県日田市と連携を図りながら今も活動を継続中。

個人的にはその一報はとても衝撃的だった。「その手があったのか!」って感じ。だけどところがこの発表に、近隣都市民、そして当の足利市民でさえもが冷笑を浴びせかけた。

そりゃまあね、観光行政的には北の小京都とは言うけれど恥ずかしくて他県の人には言えないし、鎌倉市と姉妹都市結んでいるけど、当の鎌倉市民には「心外だ!」と憤慨される始末。(ソースは尾内 N=1)
だけどね、それじゃあそもそも、近隣都市のどこがこの暴挙に出られるのか? その「そもそも論」で捉えてみると、全く違った足利市が見えてくると思うのです。


さてここで、北関東における国宝、国の重要文化財の数を確認してみよう。

栃木県 169件
茨城県  74件
群馬県  56件

栃木県の数は茨城群馬の約3倍。では国宝に限ってみるとどうだろう。

栃木県 16件
茨城県  2件
群馬県  0件

では市町村で見てみるとどうなのだろう。
栃木県
日光市 12件
足利市  4件

茨城県
鹿嶋市 1件
土浦市 1件

群馬県 0件

次ぎに、一気に両毛5市に限って見てみよう。

足利市 国宝 4件、重要文化財 3件
桐生市 国宝 0件、重要文化財 6件(別注※を参照)
佐野市 国宝 0件、重要文化財 1件(ただし合併後)
太田市 国宝 0件、重要文化財 5件(ただし合併後)
館林市 国宝 0件、重要文化財 0件

ちなみにこの両毛地区には古墳群が多いので、国の史跡はどこもそれなりにある。ただし近世以降に限ると、国の史跡は圧倒的に足利市が多い。
また、確かに古墳は多いのだけど、たとえば三内丸山遺跡のような、それだけで観光資源となるほどの物は存在しないので、残念ながら古墳群を以てして存在をアピールするのは難しい。

そして足利市が世界遺産のよりどころとしている遺跡は、全てが近世に集中し、足利市が保有する全ての国宝、重要文化財の他に、3つの国の史跡が含まれるという「まとまり感」があり、やはり両毛地区にあって特筆されるものなのである。

さて、そのようなわけで、比較ばかりで申し訳ないとは思うのだけど、比較してみて分かったことは、笑われようが馬鹿にされようが、そもそも足利市以外の近隣都市に、世界遺産の登録を本気で考えるなんて芸当は出来ないわけで、それが足利市と足利市以外の大きな違い。言い方は悪いけど、そもそも足利市以外にはネタすらない。これが、この両毛地区の現実。

そしてどうしてこんな不毛な比較をしたかというと、前回指摘したとおり、足利市が自尊心を失った原因の一つとして近隣都市との比較が考えられるから。比較に比較で返すなんて、まるで子どもの口げんかみたいだが、足利市民が比較に囚われているなら比較でその呪縛から解放出来るかもしれない。本論はそういう意味でも「試み」であるのだ。

確かにこれだけを以て足利市民の自尊心をくすぐるのは難しいかもしれない。だけどどうだろう、せめて「(仮称)日本遺産」なんてものが出来たら、その末席に滑り込めるくらいの価値はあるのではないか。というか両毛地区にあって「産業・商業はみんなに任せた! だから文化はこの足利市に任せてくれ(キリッ」くらいのプライドは持ってもいいんじゃないか。そんなことを僕は思ってみたりする。

今回は、あまり露骨にやると各方面に角が立ちそうなので、かなりトーンダウンしたことをここに白状する。しかしそれでも言いたい事はぶれていない。

そもそも何もなかったら世界遺産登録活動なんて無謀なことは出来ない。そして近隣都市の方々が笑うのもごもっとも。真摯にご意見を拝聴しよう。しかし肝心の足利市民が笑うのは止めましょうよ。いいじゃないですか、こんな活動できる都市なんて、日本全国見渡したって滅多にないんだから。
そういう意味ではやっぱり足利市って、全国的にみても貴重な都市なんだと思うのです。



別注※
ただしここで桐生市の近代遺産に言及しないのは片手落ちだろう。桐生市には近代建造物が多く残され、特に重要文化財に指定されてい「旧群馬県衛生所」は明治初期の擬洋風建築で、保存状態も大変良く、その瀟洒なたたずまいはとても見応えがある。桐生市でもこれらの遺産を活用したいわゆる町おこしが行われているようで、足利市民である僕も大いに期待しているところである。
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足利市民のプライドを取り戻す試み(1)
 NHK交響楽団(以後N響)は日本最高峰のクラシック・オーケストラ。そう言い切ってしまっても、異議を唱えるクラシックファンはそんなにいないんじゃないかな。と、これは個人的な意見ですが。

 

さて、そのN響が東京以外で定期演奏会を持っているのは以下の4都市。

横浜市(368万)

名古屋市(226万)

岡山市(71万)

足利市(15万)

 

かっこ内はそれぞれの都市の人口。

一目瞭然ですよね、足利市と他の都市との違い。そう、人口と都市の持つイメージがあまりに違いすぎる、もっとはっきり言ってしまうと格が違いすぎる。「お仲間ですねぇ」なんて言ったものなら怒られてしまいそうな、それくらいに違いすぎるわけです、他の都市と足利市は。

 

逆に何故こんな程度の小規模都市(足利市)で、N響の定期公演が開催されているのかが、とっても不思議。これはひとえに関係各位の尽力の賜であるわけですが、定期演奏会になる前、足利市とN響の関係は実に1968年から続いていて、人口が20万人にも満たない地方都市がN響との関係を40年以上にわたって脈々と築き続けてこれたことに、僕は驚きを禁じ得ないのです。

 

この事実を足利市の住民はどう感じるのか? 足利市が失って久しいものに「自尊心」が挙げられると思うわけですが、その自尊心を失った切っ掛けは、人口減少、大手企業(工場)の撤退、そして近隣都市に相次いで林立したショッピングセンター(やアウトレットモール・シネコン)の存在なのではないかと…

 

では足利市に再び工場が建ち並び、巨大なショッピングセンターが出来れば自尊心は取り戻せるのか? 僕はそうは思いません。何故ならそれらは常に代替可能であり、いつでも別の物に置き換わる可能性(心配)が付きまとうから。

 

ところがこのN響の定期演奏会はどうだろう? 全国でたったの4ヶ所(しかも足利市以外は大都市)でしか行われていないN響の地方定期公演が、近隣都市でも開催される可能性が果たしてあるだろうか? たぶん、それはない。足利市の関係者各位が40年以上にわたって尽力してきたこの伝統は、容易に模倣できず、そして全国的にも希で画期的な出来事であるのだから。

 

これが、僕が足利市の住民に伝えたい、足利市が誇っていいことの中の1つ。

クラシック音楽に興味がなければ取るに足らない出来事かもしれない。しかし興味があるなしに関わらず、足利学校が足利が誇る歴史建造物であるように、N響の定期公演もまた、純然たる誇るべき存在なのだと思うのです。

ところで足利市では、2009年から水戸室内管弦楽団の定期演奏会も始まってます。同じ北関東の水戸のオーケストラだからと言って軽く見てはいけない。水戸室内管弦楽団は総監督に吉田秀和(著名な音楽評論家)、音楽顧問に小澤征爾をもつ、日本有数の室内オーケストラなのだ。 

そして水戸室内管弦楽団が本拠地以外での定期公演を持っているのは、ここ足利市だけ。

 

これって自尊心をくすぐりませんか?

もちろん僕は、足利市民会館NHK交響楽団定期公演(そして水戸室内管弦楽団定期公演)の存在を、心から誇らしく思っています。


(2012/5/7 Facebookのノートより)

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GW、松島へ観光に行くということ

4/29・30で「奇跡的に被害を免れた」と言われる宮城県は松島へ「観光旅行」に行ってきた。

前日の渋滞予測では東北道下りは5km以上の渋滞無し。
この情報を信じてゆっくり出発したら、予測は大外れで計2時間以上渋滞に巻き込まれた。
噂されていたボランティア渋滞だったのだろうか。

午後3時頃、仙台で高速を降りるが、雲行きがどんどんあやしくなってとうとう雨に。
しかし僕はくじけない。
宿泊地の途中にあるニッカウヰスキー宮城蒸留所には何が何でも寄らなければならない。
車の一人旅だから試飲は出来ないんだけどね。









昔のお酒やジュースの瓶が展示してあって楽しい。
客層は…昨今のハイボールブームの影響なのか若い人が多い。
ショップには1万2万のウイスキーが当たり前に並ぶけど、
いったい誰が買うんだこんな高いの。
そしてこの付近は桜がまだ見頃であった。
桜前線に追いつく旅というのは何か得した気分になる。



この日の宿泊場所は仙台から30分くらい西に行った作並温泉というところ。
宿には広瀬川沿いの露天岩風呂があって、ここに至る階段がとても風情があってよい。





ただこの階段しかないので、お年寄りにはきついだろうな。
というか無理かも。

ちなみに宿は、夕食時の様子を見る限り、半分強の宿泊数とみた。
家族連れや若いカップルも少なくない。
ただし心なしかみんな静かに食べている。
相席の(同じく一人の)男性達に積極的な話しかけるも、いまいち反応が悪い。
まあ…中年男性同士でお喋りしても面白くないんだろうけどさ(苦笑)

さて翌日はいよいよ松島へ。
ところでここまで、まったくと言っていいほど被災の爪痕に遭遇していない。
そりゃ旅館にも大きなひび割れとかありました。
でも栃木の被害と大差ない程度(見た目の話)。

仙台から松島へは最近自動車専用道が整備されて、1時間もかからずに到着できる。
(カーナビの案内を無視して進むのはけっこう勇気がいった)
しかもインター降りて直ぐだから、これまた被災現場をまったく見ないで行けてしまう。
これは、ぜひ松島には行きたいけど被災地を通るのはちょっと…ということで迷っている方にはとても都合いいのではないだろうか?

人によっては「被災地の現状を直視しないとは何事だ!」とお怒りになる方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、そういう考え方がブレーキになって人の動きを抑制してしまうのも事実。
「一つになる」のも大事かもしれないけど、支援にも多様性があっていいと思うし、多様性を認めることで、多くの機会、切っ掛けが生まれるのだと僕は考える。







遠目に見れば、これも被災地だなんて分からない。
ただし注意深く見ていくと、やっぱり栃木とは違う被害状況が垣間見られる。
更に街を歩けば、驚きの光景が…
写真は撮らなかったが、お土産物屋や食堂など、ざっと半分くらいは開店していない。
開店していないというか、シャッターは車が突っ込んだようにメチャクチャに凹み、
ショーウインドウは補強テープで辛うじて形を保ち、
歩道は掃除をしたのだろうけど未だ泥にまみれている。
また、道路の至る所に白い粉が撒かれていて、
後で知ったのだけどこれは消毒剤だったらしい。

「奇跡的に被害を免れ…」は、近隣の街が壊滅状態になったのに比べれば、という意味だったとここに至ってようやく知る。

たぶんだから「一刻でも早く復興を」と動き出せる人たちと、「どうすればいいか未だ分からない」と動けない人たちの両方が共存しているって感じ。
これは正に被災地の縮図なのではないだろうか?

僕は「被災地が商売を始めているんだからお金を使いに行こう」と単純に考えたわけだけど、このスピードについていけない被災者もいるわけで、だけど彼等に配慮して自粛してしまっては、何も始まらない。

経済活動から社会が動き始めるのだとすると、被災者が避難所にとどまる限り、被災地は経済活動すら停止していると言うこと。
だからって被災者に「さっさと動き出せ」と言おうとは思わない。

つまり繰り返しになるけど被災地の状況も被災者の心情も画一的ではないのだから、まだ動けない人は動かないでいいんだし、動きたい人、商売始められる人は動き出しているということを僕らは知るべきなのではないだろうか?

「一つになろう」という思想が危険だと僕が感じるのは、支援する側だけの問題だけではなく、被災者にも何かしたら無理強いを迫ってしまう可能性があるという点。
「一つになろう」は被災者に「さあ、悲しむのはもうおしまい。さっさと復興しようよ、日本中が元気な東北に期待しているよ」と圧力をかけてはいないか。
そうやって「いやゴメン、もうちょっと休ませてよ」という声を塞ごうとはしてはいないか。

世の中には、病気や事故で家族を失って、5年10年立ち直れない遺族なんていくらでもいる。
それなのに、あれほどの災害を経験して、たった2ヶ月ほどで立ち直れると、どうして考えられるのか。

支援するなら、彼等のそれぞれの境遇や心情に配慮する。
そもそも「被災者」という呼び名で画一的にサポートする行為は、支援者の欺瞞であるかもしれないわけだし。

だからお客を待ってる人がいるところには、普通に行けばいいんだと思う。
ということでGWに合わせて準備してきた松島の人たち。

「松島水族館」









「松島遊覧船」





水族館の生き物たちが待っていたかどうかは分からないけど、
遊覧船についてくるカモメたちは、間違いなく人間を待っていた。
何しろいつも以上にエサの食い付きがよかったから(笑)
(この日が運行開始2日目だったようだ)

心安らぐ情景。
瑞巌寺近くの茶屋と、円通院庭園。







そして今回の旅で購入したお土産一覧。
全部、カード使わず現金で買った。



ささやかな自負を述べるなら、被災者たちが明日仕入れる商品代金の足しや、そこで働く人たちの報酬の一部に、今回の旅はダイレクトに貢献できたと思う。
ささやかだけどそう思う。

色んな支援の形や気持ちがあって当然。
たぶんどんな形や気持ちも間違いでない。

僕は「自分も楽しんで」しかも被災地に貢献できると考え、今回の「観光旅行」を選択した。
観光だから寄り道はしなかった。
よって、たぶん数km先にあるのあろう悲惨な現場は一切見てこなかった。


最後に、あの状況下でこれほど急ピッチに観光客の受け入れ体制を整えられた松島の方々へ、心から敬意を表します。

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2011年3月4日のTwitter
「インプット・アウトプット」

本を読んで感心したり学んだり、知識や教養をどんどん貯め込んで、風船みたいになんで破裂しないのか不思議な人が少なくない。

インプットを増やしてもなかな自信の根拠にならない。
だからアウトプットの練習が必要なのかも。こう書くとアサーション教育やディベート訓練とどこが違うのと言われそうだけど、そういう難しい事じゃなくて、「入れたら出す」習慣を作るだけ。

もちろん、アウトプットするまでもなく、他の理由で体力を消耗していて、代用食品として書物などで知識や感動などをインプットして、辛うじて生き長らえている…という場合もあるだろう。
と書いてふと思ったのだけど、知識教養感動って「生き続ける」ための代替品としての意味合いの方が強いのかも。


「笑顔の文明論」

運動しないと筋肉は衰える。
笑わないと表情筋が衰える。考えてみれば当たり前。
腹筋と同じで、トレーニングしないとこわばった笑顔は元には戻らない。

「笑顔」を失った人の顔が不機嫌だったり怒ったように見えるのは、それがヒトしてのデフォルトの表情だからなのか?
とすると「笑顔」こそ文明の証、とか。


「ねえパパぁ。どうして毎朝、鏡に向かって笑ってるの?」
「笑顔のトレーニングだよ。やっぱ家庭を明るくするには笑顔だ大事だからね」
「ごめん、娘が怖がってるからからやめてもらった方がいいみたい」
「なぜだあ!」


たぶん「笑顔」ってやつは、生後2.3ヶ月を頂点として年齢と共に衰えていく定めなのだろう。
え?赤ちゃんの笑顔は意志が伴った本当の笑顔ではない?
…たぶん「笑顔」ってやつは2.3歳を頂点として(ry


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2011年2月28日のTwitter
「等価交換の原則」
何かを得たら何かを失う。
だから、何も望まなければ何も失わない。
これ、間違い。
失うのが怖くて何も望まななくても、
チャンスはどんどん掌からこぼれ落ちる。

呪いは自分を滅ぼすとは、かの魔法少女でも語られていた法則なのだが、
呪いというとリアリティに欠ける。
憎しみでも、何だか小説の中だけの事のよう。
だからその感情は本当は「イライラ」程度の事なのかもしれない。
イライラで身を滅ぼす。
…怖くなってイライラすることも出来ない。

こんな他愛のない事で呪いを解くことが出来る場合もあるのだが、
なんと言っても難しいのが「自己肯定感の獲得」なんだと思う。
「君は大丈夫」という言葉の空虚さよ。
でも何も言わないと自己肯定感はますます下がる。
「君は大丈夫なんだよ」
100回言い続けて伝わるなら、どんなに楽だろう。

コミュニケーションスキル学習の最大の問題は、
必要と感じられる人に限って「自分には必要ない」と思っていること。

自己肯定は別名「自分が必要とされていない感」。
これが強敵で、最終的に「自分を必要としてくれる恋人がいないから」と返されると黙るしかない。
この「自分を必要としてくれる感」が如何に重要な要素なのかは、
激しいDVを受けても別れようとしない女性が存在することからも根は深い。

もしかして今の若者は常に「自分はここにいちゃいけない感」や
「自分は必要とされていないかも感」と格闘しているのかもしれない。
これは、夏休み毎日蝉を追いかけて真っ黒に日焼けするのが当たり前だった僕らの世代には
想像できない、とても過酷な生き方のように思えてならない。

自戒の意味も込めて言うけど「昔はこうだった」と説教されても何も伝わらないし何も解決しない。
「今の子どもはゲームばかり」と言うが、
40年前DSがあったとして、それでも絶対ゲームしなかったとどうして言える。
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震災で親や子を失った方に僕が伝えたいこと
「子のためなら死ねる」と「親のためなら死ねる」は似ているが全くの別物。
子のために死ねないという親を僕は軽蔑するし、
親のためなら死ねるという子どもに育て上げた親を僕は激しく憎む。
言わんや子は自分の老後の面倒をみさせるために生むんだとほざく親など…

だから親を失った子よ。
どうかそれ以上泣かないで。
自分が悪いなんて思わないで。
悲しませるために親は死んだ訳じゃないし、
君のために死ぬことを親は惜しんでいないのだから。
そして出来ればその慟哭をプラスに変換して、
いずれ授かる君の子どもにどうか注いでくれ。
つまり…たぶんそれが「未来」だ。

また子を失った親よ。
その慟哭と後悔と無念に僕は心から共感する。
僕にはまだ自己抑制機能があって涙のスイッチを切れるが、
あなたには切るスイッチがないだろう。
だから泣け。
涙が涸れるまで泣け。
何年かかってもいい。
いずれ立ち上がれ。
子はもういなくても、あなたを必要とする誰かが待っている。
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2011年2月21日のTwitter
【規制】

漫画は何かと非難されたり攻撃されたり規制の対象にされるけど、小説が規制されたという話をとんと聞かないのは何故だろう。
うがった見方をすれば「小説はそれほど影響力はない」と見なされているということか。

但し漫画、アニメは如何せん歴史が浅い。
無人島に持参するのに小説はオデッセウスから選べるが、漫画はのらくろ一等兵からとは。
この蓄積の差埋めるのは容易ではない。
つまり漫画、アニメはまだまだ成熟しきれていない分野であると言うことか。
小説が危険な存在だった時代も過去にはあったわけだから。

【景気対策】

世の中がミュージカルになったらケンカやいがみ合いはなくなるのだろうか?
 ↓
たぶん騒音問題でいざこざ頻発

「日常会話ミュージカル化法案可決」
 ↓
住宅を防音にする家庭激増
 ↓
ミュージカル特需
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2011年2月18日のTwitter
【老害】
こんな言葉があるくらいなんだから、昔から「年寄りは害である」という認識が一般的なのだろう。
来るべき高齢社会は害だらけ?←ってかそれ自分も含まれるし。

【自分が老害にならないための生き方講座】
なんてものを中高年向けに開催したら繁盛するかな?
それとも「俺たちを老害とは何事だ!」と叩かれておしまいかな?

「畳の上で死にたい」は、看取る家族がいる者だからこそ言える台詞。と言うか…(以下省略)

【皮肉】
家庭を持つとは、老後の面倒と死後のあれこれを如何に
「家族なんだから当たり前」と信じさせて実行させる環境を整えるかという事。

なんというか本来は、
「お願いです。俺(私)が呆けたら面倒みてくれ。そのために少ないけど貯金と保険を用意した」
と、配偶者や子供に伝えるのがすじなんじゃないですか?
それを「配偶者や子が親の面倒を見るのは当たり前」
と信じこませるのってひどい欺瞞だと思うのだけど。

ちょっと極論過ぎましたね。

んー、だいぶ暴言だったみたい。

ま、そうは言っても「愛する」って素敵ですね。←お前が言うか!
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