ピアサポートの形態について考える

<メモ>
ピアカウンセラーを擁するピアサポート事業について。

複数の同意者が集い何らかの組織化がなされた場合のリスク。

ピアサポートのpeerが何であるかによって活動範囲やレスポンス力に大きな差が生じるのではないかという仮説。

難病患者を例にこんな分類をしてみた。

(1)構成員のほとんどが難病患者自身である組織
(2)特定の難病患者をサポートするために集った組織
(3)難病患者の家族や遺族が集った組織
(4)難病の存在を知った一般人が集った組織


「社会活動」という点に注目して考えると、それぞれに強みや弱みがあることがわかる。

まず構成員のほとんどが難病患者自身である組織の場合、相互理解・相互援助に関してはきめ細やかなサポートが期待できる。
また寄付金や助成金も得やすいであろう。
しかし反面、構成員のほとんどが難病患者であることから、行動力・クイックレスポンスに難がある。
(これが例えばがん患者の組織であった場合、代表や幹部が亡くなられることも十分に考えられる)

次に特定の難病患者をサポートするために集った組織の場合、よく聞かれる例として「義援金を募って海外で治療する」というものがあるが、その治療に至るまでの活動は活気に満ちあふれるものであろうと想像は容易いが、無事治療が終わった後、または不幸にも治療が功を奏しなかった後、構成員のモチベーションはどうなってしまうのか心配である。

最後に難病患者の家族や遺族が集った組織の場合であるが、彼らはいったいどこに焦点を当てれば良いかという点で食い違いが使用時安くはないかという疑問を感じる。
つまり、家族と遺族に対してのサポートなのか、それとも患者本人なのか?
この点をある程度明確化しておかないと組織の方向性が散漫になると考えられる。

ちなみにこの形態は難病患者などだけではなく「引きこもり児童の家族」という形態も含まれる。
そしてこのような組織になると、家族のケアと本人の社会復帰という2つのテーマは一体化しており、方向性が散漫になることはない。

このように一見すると「当事者本人が構成員ない組織」は組織力が弱いと思われがちだが、あくまでpeerが何を指すのかに関わっていると感じる。

もう一つ、実例としては骨髄バンクの支援活動を知っているのみであるが、難病の存在を知った一般人が集った組織という形態もある。
これも構成員に対するモチベーションの維持が最大のテーマとなるであろう。

私見ではこの形態はボランティア希望者の最大の受け皿であると考えられる。
しかし参加者が当事者本人でないことから、肝心の充足感(ヘルパーセラピー原則)が得られにくいという問題があるのではないかという指摘を以前にもしたことがある。 参考(2010.02.25のブログ)

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社会活動としてのピアカウンセリング
peerであることを原則に、対人援助をするという意味においては、ピアカウンセリングとピアサポートはほとんど同義であると思える。
僕もこれまでは、その程度の認識で書き選んできた。
しかし一つ(しかも重要な)相違点を指摘するなら、ピアカウンセリングはカウンセリング(的)である必要があるが、ピアサポートにおいてはカウンセリングスキルは特段問わない、もしくはピアカウンセリングを内包していると考えられるので、ピアサポートの活動範囲や目的は、もしかしたらピアカウンセリングとは次元が異なるのかもしれない。

そこで、埼玉県立大学教授、高畑隆氏が執筆された、アステラス製薬が実施しているピアサポーター養成講座のテキストを元に、テーブルを挟んで1対1で行われるピアカウンセリングとはまったく異なる「社会活動」としてのピアサポート像について考えてみようと思う。

ピアサポートの意義を考える上で重要なのは「ヘルパーセラピー理論(原則)」である。
これは、援助する者がもっとも援助を受けるという原則で、援助を与えることによって、自尊心や自身などを獲得したり、自らの問題の対処能力を高められるという理論。

この理論を提唱したのは(たぶん)以下の書籍が最初だったのではないだろうか?

セルフ・ヘルプ・グループの理論と実際―人間としての自立と連帯へのアプローチ
アラン・ガートナー、フランク・リースマン(共著 川島書店 1985)

残念ながら品切れ、もしくは絶版になっているようだが、詳細なレジュメが以下で読める。

立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点http://www.arsvi.com/
  松枝 亜希子氏による文献紹介(http://www.arsvi.com/w/ma01.htm
    本文http://www.arsvi.com/b1900/7703ga.htm

このセルフセラピー理論に基づいたピアサポートとは、自身の体験的知識を柱に、自己の行動変容と環境改善をもたらす社会的活動と定義することが可能となる。
これがどのような社会的活動になるかについて、図に表すと以下のようになる。


上記の図は、最初、アドバイスや共感を求めて相談を依頼してきた者が、やがて団体の会員となり、例会などでサポートされる側からサポートする側に変容し、やがては相談員として、かつての自分と同じ立場の人々をサポートするという一連のサイクルを描いている。
その中の一部はやがて、団体の運営委員や役員として団体の運営に参加するだろう。

つまりピアサポートとは、このように(例えば)地域社会において循環することで、体験的知識を蓄積・共有し、情報発信をし、やがては活動を社会的事業にまで昇華させようという狙いを持つ。

これは明らかにピア「カウンセリング」とは次元が異なり、ピアカウンセリングとピアサポートを同列に扱うことには無理が生じることがわかる。
言い換えるなら、ピアカウンセリングはピアサポートという社会的活動の一つの役割である。

では改めて、ピアカウンセリングをどう実現していくかを考えると、第一に既存の団体に所属するのが手っ取り早いだろう。
僕が所属する、がん患者団体支援機構によるピアカウンセリング(ピアサポート)事業がその典型だ。

しかし当該分野に関する団体が存在しない(もしくは遠方の)場合、ピアカウンセリングを実現するためには、個人で地道に活動をするか、仲間を募って団体を立ち上げる必要がある。

つまり、この活動の受け皿となるのが、たぶん本来のNPO(特定非営利活動法人)の役割なのだろう。
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ピアカウンセリング(8)
 「情報提供(または提案)」ということについてもう少し考える。

カウンセリング(ブリーフセラピー)においての提案とは、あくまでクライエントの解決リソースに基づいて行われる。
つまり無茶な提案、負担の高い提案はしないというのが基本。

教科書などでよく見かける事例として「母子家庭の母親が、仕事と家事の両立で疲れ果てているのに、子どもが部屋中散らかすので、もう全てを投げ出してしまいたいくらい困っている」というクライエントがいたとしよう。
このときカウンセラーが心の中で「まずは子どもとのスキンシップが必要なのでは?」と思ったとしても、それは決して口には出さない。
何故なら、それができないから母親は困り果てているのであるから。

カウンセリングと人生相談や占いが決定的に異なるのはこの点で、カウンセリングでは「出来ていないこと」を指摘することは滅多にせずに(場合によってはすることもあるが)、負担の軽い提案(課題)に取り組んでもらうことで、生活や考え方に変化をもたらすことを目的とする。

したがって上記の例では例えば「では週に一回くらい、お子さんと一緒にお片づけすることはできませんか?」などと提案する。
この提案が負担であるとか無理であるとクライエントが反応した場合はあっさり撤回し、更に負担の軽そうな提案を行う。
「では、寝る前にオモチャを一個だけ元に戻すように、お子さんに頼んでみることはできませんか?」などと。

カウンセリングでは、ここで新たなリソースが発見される場合が多い。
つまりこのケースでは「うちにはオモチャ箱がない」などと。

このリソースが得られたなら、このリソースそのものが提案材料になる。
「では今度の休日に、お子さんと一緒に素敵なおもちゃ箱を探しに行くのはどうでしょう?」と。
すると母親も「確かにオモチャを仕舞う大きめな箱があった方がいいと思っていたんです」などと反応したりする。

少し長くなったら、これがカウンセリング(ブリーフセラピー)における「提案」という技法である。

しかるにピアカウンセリングにおいて提案するとは、どのような戦略に基づけばいいのか?
と考えるてみると、このカウンセリングとの対比からピアカウンセリングの特性というか、カウンセリングとの明確な違いが見えてくる。

つまりピアカウンセリングにおいては、クライエントのリソースはピアカウンセリングのリソースでもあるという点である。
もちろん、カウンセリングにおいても、カウンセラーは私生活では自身も母子家庭で、部屋は荒れ放題の場合もあるだろう。
しかしカウンセリングにおいては、カウンセラーの事情や私生活は一切関わりのないことであるから、間違って「うちもそうなんですよー」とは言わない。
ところがピアカウンセリングとは、まさしく問題となるPeerな部分をテーマにするわけだから、仮に「母子家庭の母親に対するピアカウンセリング」というものがあったとしたら、まさしくこの部分が共感を発揮するポイントとなるかもしれない。

となると、この「母子家庭の母親に対するピアカウンセリング」では、提供される情報は「カウンセラーがどうやって部屋を片付けた」とか「ストレス発散」や「利用できる公的機関」などという事柄になるかもしれない。
場合によっては「結局ねー、子どもとのスキンシップが足りなかっただけだって気づいたんですよ」などと一気に結論を語ってしまうかもしれない。
しれないが、ピアカウンセリングにおいては、これも情報の一つであるのだから否定はできないのではないか。

以上のように、ピアカウンセリングが抱える最大の問題は、情報提供するその情報についての明確な基準作りを行わなかった場合、必ずピアカウンセラーの体験とか信念などのバイアスがかかり、偏った情報提供がなされる危険性をはらむという点に尽きるのではないだろうか?

このように、Peerであることで共感が得られやすいと言う利点を持ちながらも、Peerであることが問題をはらむという両刃の剣であるピアカウンセリングではあるが、個人でピアカウンセラーを標榜するのではない限り、何かしらの団体なり組織に属して活動をするはずであると考えられる。
であるなら、その団体や組織がどの程度しっかりとした情報提供に関する基準を設けているか、その点をハッキリと見極める必要があるし、これからピアカウンセリングに取り組みたいと考えている組織団体であれば、もしかしたらまず一番最初に取り組まなければならないことが、この「提供する情報についての一定の基準」なのかもしれない。

何故なら「傾聴」などのカウンセリング技術はすでに一定のマニュアルが出来上がっていて、どのマニュアル教科書も差異はない。
しかしピアカウンセリングのPeerな部分に関しては、実は抱えている(抱えていた)問題は同じでも、克服した方法はかなり範囲が広いからである。

もちろん、ピアカウンセリングに情報提供が必須であると主張したいわけではない。
いっそ情報提供を一切しないピアカウンセリングがあってもいいのではないかとも考えるのだが、果たしてそれで、相談者が納得するかどうかは定かではない。
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ピアカウンセリング(07)
 「傾聴」という技術と「情報提供」の両立について考える。

そもそも傾聴とは、自分の思い込みや経験、信念等を一切脇に置いておいて相手の主張に耳を傾けること。
であるが同時に、相手の話の中にどんな解決につながるリソースが潜んでいるか、丹念に注意することであると考える。
「解決につながるリソース」とは、僕がブリーフセラピーを主に使用しているからこう表現しているだけで、ヒントとか抵抗とかに置き換えてみても、結局、傾聴という技術には、そのような背景があることに違いはない。

では、解決に至らない傾聴というのは何なのか。
もちろん、傾聴によるカタルシス効果や、話すことによる自己解決という効果も無視できない。
またいっそ、面談が傾聴に終始し傾聴で終わるというならば、仮に面談が上手くいかなくても、相手に害を与えることはまずない。
しかし「傾聴+情報提供」で、ピアカウンセリングが成立するという考え方は、ある種の危険をはらんでいるように感じられてならない。

というのも、実はブリーフセラピーにおいても情報提供はなされるからである。
もっぱら僕らは「提案」と表現するが、「こんなことに取り組んでみませんか?」とか「こういうことしてみるのはどうでしょう?」などと臆せずカウンセラー側から提案する。
どんどん提案して、クライエントから拒否されたりしたら潔く提案は引っ込める。
そしていくつかの提案の中から、クライエントにとって負担でない、楽に取り組める課題を決定し、そのチャレンジを次回までの宿題にする。

このブリーフセラピーの一般的な構造から「傾聴+情報提供」のピアカウンセリングのどこが危険と感じられるかと言えば、以下の2点があげられる。

まず、情報提供しか行わないピアカウンセリングでは、情報提供はただの「情報」に過ぎず、情報が常にクライエントにとって有益とは限らない点。

次ぎに、ブリーフセラピーで言うところの「解決につながるリソース探し」という前提がない状態で、情報提供がピアカウンセラーの意見の押しつけにつながりかねないのではないかという点。
2点目は特に僕が懸念をしていて、ふだんカウンセラーがどうして傾聴に徹することができるかというと、まさにリソース探しをするために必要だからという重要な要素を持つからである。
しかるに「情報提供のために傾聴する」という理屈は成り立つのだろうか?
というか、そもそも「情報提供」にも2種類あるということを忘れてはならない。
つまり「相手が気づいていない情報」を提供するのか?
「相手が望んでいる情報」を提供するのか?
の2パターンである。

ここで書きながら自分でも気づいたことなのだが、ピアカウンセリングにおける「情報提供」も、実はPeerが意味するところが何であるかによって変わってくるのではないか?

ただ単に知っていればいいと思いがちな「情報提供」についても、一筋縄ではいかないということのようだ。
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ピアカウンセリング(06)
 ピアカウンセリングとは何なのか?
これまで「傾聴ボランティア」を例に考えてきたが、今後の叩き台として、ピアカウンセラーの要件について、一つテンプレートを作ってみようと思う。

■ピアカウンセラーの要件

【経験】クライエントと共通な体験を有すること

【技能】
(1)傾聴:占いや人生相談との明確な区別のためには必須と考える。ただし充分な学習が必要。

(2)情報提供:場合によっては情報提供で問題が解決することもある。
例えば借金苦のクライエントに共感するより自己破産等の具体的な情報提供の方が有効であるなど。

(3)リファー:自分以外の誰かの方がクライエントに有益であると感じられたら、自分以外の専門家などを紹介することが必要となる。
このためには、あらかじめ自分がリファー先をいくつか確保しておく必要がある。

しかし「傾聴」と「情報提供」は一見矛盾しているように思える。
矛盾しているように思えるが、例えば難病患者や障害者へのピアカウンセリングであれば、傾聴による自己肯定感の向上と共に、明らかにクライエントにとって有益であると考えられる情報を持っているなら、黙っていないで伝えるべきだとも言える。
なぜこのように断言するかというと、共通な体験者として、カウンセラーはすでに有益な情報を持っているということこそが、ピアカウンセリングの最大の有用性と考えられるからである。

ただし、これは両刃の剣となる。
カウンセラーが信じる「有益な情報」というものが、エビデンスに基づく情報なのか、カウンセラーの信念や嗜好に基づくだけのものなのか、カウンセリングの現場でチェックすることはほぼ不可能であり、場合によってはクライエントに不利益を生じさせてしまうことも考えられる。
この問題に対しては現状「充分な訓練を積む」必要性を示唆するだけしかできないが、この問題について充分な議論や結論が示されない限り、場合によってはピアカウンセリングの要件から「情報提供」を外した方が間違いはないのかもしれない。

となると、ピアカウンセラーの技能的要件は、傾聴とリファーのみとなるのだろうか?
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ピアカウンセリング(05)
 <メモ>

ピアカウンセリングにおいて、peer(経験者・当事者)であることと、カウンセラーであることと、どちらに重点を置くかで面談のあり方が変わって来るという比較。

peerである面が強いと、どうしても意見がしたくなる。
カウンセリング・スキルが身に付いていれば、peerであっても意見はしない。

したがって、peerでありカウンセラーであることは自己矛盾を抱え込むことである。
この矛盾を抱えながらピアカウンセラーはどうあるのが理想か?

peer(経験者・当事者)であるということを利用する(自分のリソースとする)。
例えばこんな感じ。

相談者「同じ体験をしたのだから、あなたにも分かりますよね?」
相談員「わたしが同じ体験をしたと分かったら、それで気持ちが楽になりますか」
・・・などとは言わないで、
相談者「分かりますよ。わたしもまったく同じ体験をしましたから」
と応じる。

しかし、何でもかんでも、最初から最後までこんな具体では、カウンセリングたり得ない。
リフレクションするタイミングがカウンセリングでは重要なように、peerな自分を利用するタイミングもまた重要だと思う。

となると、peerな自分を利用するタイミングとは、相談者から同意を求められたときか?
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ピアカウンセリング(04)

ピアカウンセリングとしての「傾聴ボランティア」を考える。

前出であるが「傾聴ボランティア」はすでに育成・認定団体が存在し、呼称としてもある程度認知されていると考えられる(特に介護の現場では)。
ある程度の学習意欲があれば、出費・時間的にも、誰もが比較的負担なく参加できる社会貢献であると言える。
※ただし「施設に入所している高齢者の話し相手」というと「お喋りの相手」をすると勘違いされることが多い。しかし「傾聴」は「お喋り」とは対極的なある種の「技能」である。傾聴ボランティアに代表される「傾聴」を「誰にでもできる」と謳い、非常に短期間で(しかも多くは数時間で)習得可能と謳う行為は、本来危険であると認識すべきである。

であれば、傾聴ボランティアをピアカウンセリングの一つの核として、積極的に(例えば筆者が準備中のNPO法人等で)普及活動を勧めるのはどうだろう。
とも考えられるのだが、残念なことに現実には、高齢者であれば誰もが「聞き役」を欲しているわけではないために、思いの外需要は限られると考えられる。

実際問題として、高齢者の多くは「傾聴ボランティア」という存在をそもそも知らない。
仮に「話を聞いてくれる人がいますよ」と伝えれば、高齢者は感謝するだろうが、高齢者は生活の中で、自分の都合で唐突に聞き役を欲するのであって(そして場合によっては聞き役が不在でも話し続けるものであって)、ボランティア・スタッフが施設を訪れ「では、何でもお話し下さい」と声かけすれば、素直に応じてくれるというものではない。
果たして、常勤でないボランティア・スタッフが、施設を訪れ、高齢者の聞き役になれる確率は、いったいどれくらいだろう。
施設を訪れられる時間帯は、当然施設のスケジュールに従うのが大前提であり、自分は自由だからと朝から夕方まで居座られては、職員の迷惑になるだけである。

確かに介護の現場では、介護職員が図らずもこの傾聴ボランティアと同じ技能を発揮しているシーンが多く見られるが、それは介護職員が意図して相対しているわけではなく、高齢者が話したいときに偶然職員が近くにいただけのこと。
(これは病棟で患者に看護師がつかまってしまうケースととてもよく似ていると思う)

このように、残念ながら、社会貢献に携わり、充足感を得たいと願う人々に対して、傾聴ボランティアを積極的に勧めるわけにはいかないようだ。
(もちろん、選択肢としては必要だが)

本題から逸れるが、看護・介護の現場スタッフこそが傾聴技法やカウンセリング・マインドを習得すべきだという意見があるわけだが、かれらには、やらなければないないことが実に多く、語弊があるかも知れないが、法の制約で、やりたくてもやれないことも実に多い。
「患者や利用者の立場に立ったサービス」というスローガンは間違いではないだろうが、それを病院や現場スタッフの努力や意識に期待するだけでは、なんの解決にもならないと思う。

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ピアカウンセリング(03)
 <メモ>

僕が「ピアカウンセリングは市民生活において有効」と考える理由は、日本には何らかの形で「貢献」したいと感じている潜在的人口が多いと想像しているからである。
その根拠として、多くのボランティア団体・NPOの存在があげられる。

僕自身、かつて骨髄バンク普及活動を行うボランティア組織で積極的に活動していたことがある。
今は、Webサイトとメーリングリストの管理をしているだけの幽霊会員と化してているが、当時も今も、スタンスや行動力の違いはあるにしても、ボランティア・スタッフが足らなくなるということはなかった。
かつての中心的メンバーがバーンアウトや行政との対立に疲れるなどして第一線を退いても、ちゃんと次なる人材が新加入し、新たなリーダーとなって組織を牽引する。

これらの情熱は、いったいどこから来るのだろう。
「骨髄バンク」というと、会員は患者、もしくは患者家族が多いのではと思われるかもしれないが、実際は骨髄バンクと縁もゆかりもない人が活動に参加している。
(もちろん、元患者、患者家族もいるが)
この、目的と因果関係のない情熱こそが、社会貢献したいという、人々の思いなのではないか?

しかし、社会貢献したいと願っても、やりたいことと出来ることにはかなりの落差がある。

何らかの特殊技能や資格を持っている者は、その技能や資格を有効活用でき、尚かつ要望されることも多い。
(医師や看護師による災害ボランティア、弁護士による無料相談などから、マジックが趣味であれば施設の慰問などもある)
しかし、ホワイトカラーのサラリーマンである、主婦である、学生であるなど、その他多くの特殊技能、資格を持たない市民にとって、社会貢献したいという「思い」と、社会の受け皿とのギャップに、実際ボランティアに参加した人も、参加したいと考えている人も、何か釈然としない思いを抱いているのではないだろうか?

事例を一つあげよう。
僕が参加していた骨髄バンクのボランティアでは、もっとも貢献度が感じられ、やり甲斐があるのは、献血並行ドナー登録会における「説明員」という、ドナー登録希望者への説明と同意を得る役割であった。
しかし多くの場合、この役目はベテランおよびリーダー格の数名が独占し、他の者は、ほとんどの時間をチラシ配りや呼び込みで終えるということが長く続いた。

考えてみればこれは当然で、誰もが社会貢献し充足感を得たいからボランティアに参加しているわけであって、逆の見方をすれば、骨髄バンクの普及活動に於いて、「説明員」以外に充足感を感じられる役目はないに等しいという問題が露呈する。

となると、必然的に誰もが「説明員」をやりたいが、一見公平で平等的に思われるボランティア組織にも歴然としたヒエラルキーが存在するわけで、その他大勢のスタッフは、「声を嗄らした」「チラシをこれだけ配った」などという「誰にでもできる」ことで、無理矢理にでも充足感を得るしかない。

僕自身がこの経験からたどり着いた答えは、社会貢献には「ある程度の専門知識または専門技能が必要である」というものだった。
言い方を変えると、「ある程度の専門知識または専門技能」を持たずしてボランティアの世界に飛び込んだところで、期待する充足感が得られる確率は低いということだ。

ボランティアの話が長くなったが、では多くの特殊技能・資格を持たない僕たちが、習得して活用しやすい「ある程度の専門技能」にはどんなものがあるのだろうか?
と考えたときに「カウンセリング・マインドの習得」という可能性が開けてきたのである。
(ここでは、カウンセリングマインドとコミュニケーション・スキルはほぼ同義で取り扱っている)

ということで本題に戻るが、元々の「ピアカウンセリング」が障害者のためのものだったとされることからも、ハンディのあるものでも習得可能な「カウンセリング・マインド」こそが、ハンディはないが、かといって特技も技能も持ち合わせていない僕たちにとっても、きわめて有効な社会貢献の切っ掛けであると、僕が考える所以なのである。
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ピアカウンセリング(02)
<メモ>

 ピアカウンセリングには限定的な意味以外で使われる場合もある。

そもそも[peer]を拡大して解釈すれば、企業にあっては[同僚]、学校にあっては[同級生]、社会にあっては[労働者]など、何かしらの共通項が見いだせるなら、ほとんど誰もが[peer]な関係を持っているとも言える。

このことから、前回例に挙げたような[がん患者同士]や[高齢者同士]のような特殊事情に限定することなく、職場や学校で、カウンセリングマインドを発揮することが[peer]カウンセリングであると考えることも出来る。

これは、もしかしたらかなり強引な解釈かもしれない。
強引かも知れないが可能性も感じられる。
例えば、今僕らが地元で準備している「コミュニケーションスキルを用いて市民生活の向上に取り組むためのNPO活動」などに。
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ピアカウンセリング(01)
 所属するNPO法人が自治体から受託した事業で、月に一度のペースで、がん患者と家族を対象にしたピアカウンセリングに携わっている。

「ピアカウンセリング」とは何であるか?
[Peer]とは仲間とか同士という意味だろうから、定義的にも「同じ悩みや経験、障害や病気を持つ者が相談に乗ること」だと理解し、そのつもりで面談や電話でお話しを伺っている。
僕の場合の[Peer]となる共通項は「がん患者」であるということ。

がんの経験者だから理解し合えるというものは間違いなく存在して、だからこそ面談や電話相談では、[共感]力を最大限発揮するようにしている。
するとやはり、相談者の反応は良い。
「こんなこと誰にも話せなかった」
「家族にも言えなかった」
「同じがん患者だから言えた」等々の反応が実に多い。

ただしこれは、己のカウンセリングスキルが高いためではなく、むしろ同然のこと。
何故なら、コミュニケーション技術としての[共感]を意識しつつも、同時に心の底から「同感」もしているから。
言い換えればこの「同感」できる共通体験を最大限有効に発揮しようと言う取り組みが「ピアカウンセリング」なのだと思う。

ちなみに「傾聴ボランティア」も、本質的に同じような取り組みではないかと感じている。
(特に高齢者が高齢者の話し相手になる傾聴ボランティアの場合)

また「ピアサポート」という表現・取り組みも存在する。
([サポート]と名乗っている点で傾聴ボランティアに近いイメージがある)

いずれにしろ[Peer]という「共通体験=同感」を拠り所にした社会的取り組みと捉えることは間違ってはいないと思うのだが、本来カウンセラーとして絶対的に抱いてはいけない「同感」を遠慮なく発揮する「ピアカウンセリング」とは、なにやら形容矛盾に陥ってはいないのだろうか?

などということを考えることがたびたびあって、ここで「ピアカウンセリング」とはいったい何なのか?
または公益性はどの程度あるのか?
などについて、思いついたことを今後書いていきたいと思います。
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